画像は本人の特徴を参考に制作した非公式のAIイラストです。実際の公演写真ではありません。
A.B.C-Zを、音楽と舞台の間から見る
A.B.C-Zを知る入口は、音源だけではない。映像作品としてのデビュー、アルバムの企画、ミュージカルへの出演、他のアーティストを迎えるライブなど、歌が届く場には複数の形がある。そのどれか一つだけを本来の姿と決めるより、異なる場所で同じグループの表現がどう見えるかを比べると、作品を楽しむ道が増える。
二〇二六年十月二十七日時点の公式プロフィールに載るのは、橋本良亮、戸塚祥太、五関晃一、塚田僚一の四人だ。過去には五人で発表した作品があり、現在の四人の活動と過去の作品は、時期を分けて扱う必要がある。人数の変化だけですべてを説明するのではなく、それぞれの時点でどんな作品をつくったかへ戻ることが、音楽の具体的な理解につながる。
本稿では『Za ABC〜5stars〜』という映像の入口から、『F.O.R-変わりゆく時代の中で、輝く君と踊りたい。』『CRAZY ROMANTIC!』、そして二〇二六年の『The Way of L.O.V-E』までをたどる。さらに『ABC座』と主催ライブにも目を向ける。アルバムと舞台は異なる形式だが、歌う人がどんな世界の中で何を担うかを考えるという点で、互いを照らす関係にある。
ここで重視したいのは、派手な技や懐かしい雰囲気といった印象を、実際の作品の仕組みへ戻すことだ。制作クレジット、発表媒体、舞台の脚本と演出、他者との共演という確認できる事実から、独自の比較を組み立てたい。見ていない演奏の迫力を想像で描くのではなく、どこを見れば新しい発見ができるかを具体的に示す。それが、長い活動を持つグループへ入り直すための案内になる。
『Za ABC〜5stars〜』は、映像で始まったという事実が大切だ
二〇一二年二月一日に発売された『Za ABC〜5stars〜』は、DVDシングルとしてのデビュー作品だ。公式の商品情報には表題曲に加え、「砂のグラス」などの収録が示されている。通常の音楽紹介では曲名と発売年だけが残りやすいが、この作品では媒体そのものが重要になる。最初の接点が、音だけを届けるものではなく、見ることも含む作品だったからだ。
映像で音楽に出会う場合、歌の記憶には動きや人の配置、画面の切り取り方が関わる。具体的な振付や撮影方法は映像を確認して語るべきだが、見る経験が入口にあるという構造は、媒体から確かめられる。曲を聴くことと、歌う人を見ることが同時に始まる。この条件は、その後の作品を音源と映像の両方から考える手がかりになる。
ただし、映像を伴うデビューだったから音源だけでは魅力が伝わらない、と結論づける必要はない。媒体が変われば、注意の向く場所も変わる。画面を見ているときは動きへ目が向き、音だけで聴くときは声や曲の関係へ意識が向くことがある。どちらかが完全で他方が不足しているのではなく、一曲を経験する条件が違うと考えたい。
また、後年に同じ曲を別の公演で見ると、デビュー作品としての記憶と現在の表現が重なる。その際にも、昔の映像を現在の人数や活動の説明へ置き換えず、当時の作品として見ることが大切だ。原点とは、後の変化を禁止する規則ではない。別の時期から戻って比較できる場所である。映像で始まったという事実を押さえると、A.B.C-Zの歴史を単なる曲の年表より立体的にたどれる。
『Moonlight walker』と配信の開始は、入口の増え方を示す
A.B.C-Zは二〇一五年に「Moonlight walker」でCDシングルを発表し、二〇二四年の「君じゃなきゃだめなんだ」ではシングルの配信にも進んだ。レーベルは、DVD、CDシングル、配信という異なる節目を紹介している。この履歴は、同じグループの音楽が違う方法で聴き手へ届くようになった過程として読める。
DVDの作品を手に取る場合、見る時間を用意することが鑑賞に含まれる。CDでは、音楽だけを一枚のまとまりとして聴く経験が中心になる。配信では、一曲から入り、そこから過去の作品へ移動する道が身近になる。これは媒体の一般的な違いだが、A.B.C-Zの発表史に即して考えると、作品への入口が段階的に増えてきたことが具体的に見える。
媒体の変化を、古いものから新しいものへの単純な進歩として扱う必要はない。映像で初めて知った人にとっての記憶と、配信で一曲に出会った人の経験は、それぞれ固有のものだからだ。後から作品を知った人が昔の媒体で同じ順番を再現しなければならないわけでもない。いま使える入口から入り、必要に応じて別の形へ進めば、同じ曲の異なる面に出会える。
「Moonlight walker」をこの歴史の中で見ると、一つの曲であると同時に、届け方の節目に置かれた作品でもあるとわかる。曲の価値は発売形態だけでは決まらないが、発売形態を無視すると出会いの条件が見えなくなる。音楽と映像を行き来するグループを理解するには、何を歌ったかだけでなく、どのような形で届いたかも含めて考えることが役立つ。
『CONTINUE?』は、聴き手が参加する作品の外側をつくった
二〇二〇年のアルバム『CONTINUE?』には、ゲームの世界観と連動した特設サイトが制作された。制作会社カヤックの実績紹介では、八ビットの世界観に合わせ、ゲーム感覚で楽しめるサイトを企画したことが説明されている。アルバムの表現が音源の中だけに収まらず、聴き手が操作し参加する場所へ広がった事例として注目したい。
この企画では、見るだけでなく選ぶことや操作することが体験に含まれる。アルバムを最初から最後まで聴く時間とは異なり、参加者の行動が進み方に関わる。音楽の外側にもう一つの物語的な接点があるのだ。ここで重要なのは、当時のキャンペーンを今も同じように利用できると案内することではなく、作品がどんな参加の形を用意していたかを活動史として捉えることである。
題名の疑問符にも、鑑賞上の面白さがある。「続ける」という動作を言い切るのではなく、選択を促すような形で示している。ゲームの設定と結びつくと、聴き手は展開を外から見守るだけではなく、先へ進むかどうかに関わる立場を想像できる。これは歌詞の意味を決める説明ではないが、アルバム名と参加型の企画がどのように響き合うかを考えるための入口になる。
舞台でも観客は作品の時間へ参加するが、ゲームでは操作という別の行為が加わる。A.B.C-Zの活動を舞台と音楽の二つだけで整理せず、こうした周辺の表現も見ると、観客との関係をつくる方法の幅がわかる。作品を届けるとは完成品を渡すだけではなく、どんな姿勢で出会ってもらうかを設計することでもある。『CONTINUE?』の関連企画は、その発想を具体的に示している。
『F.O.R』の長い題名には、相手と動作が入っている
二〇二四年八月二十一日発売の『F.O.R-変わりゆく時代の中で、輝く君と踊りたい。』は、四人体制の作品を知るための大きな入口になる。長い題名の中には、時代という広い枠、君という相手、踊るという動作が入っている。抽象的な再出発だけでなく、誰かと何をしたいかという形で作品が名付けられている点に注目できる。
「君」という語は、一人ひとりの聴き手が自分との距離を考える余地を持つ。特定の人物像へ決めつけなくても、歌が誰かに向けられることを意識させる。そこへ踊るという動作が重なると、音楽を聞いて理解するだけでなく、同じ時間やリズムを共有する関係を想像できる。題名から広げられる読みとして、作品と受け手の間に身体の時間があることが見えてくる。
このアルバムには「君じゃなきゃだめなんだ」と「君の隣で目覚めたい」が収められている。レーベルは後者を、君を含む作品の流れの中で紹介している。題名の共通性に注目すると、アルバム全体の長い呼びかけと個別の曲名が接続する。一方、同じ語を使っていても、各曲の内容を同一とみなす必要はない。共通する入口と一曲ごとの違いを両方保ちたい。
新体制という言葉は大きな変化を説明できるが、それだけでは音楽の具体性が残らない。『F.O.R』では、長い題名、リード曲、ソロ曲といった実際の構成へ目を向けることで、四人の活動を人数以外の面から理解できる。変わったことを数えるより、現在の作品がどんな関係を差し出しているかを見る。その視点が、過去との比較を喪失や補完だけの物語へ閉じないためにも役立つ。
四つのソロ曲は、同じグループの別々の入口になる
『F.O.R』の配信作品情報には、橋本良亮の「浮遊」、戸塚祥太の「月に行くね、光の連続」、五関晃一の「リマレンス」、塚田僚一の「Stay Back」がソロ曲として掲載されている。四人の名前が異なる曲名と結びつくことで、グループの一枚の中から個人へ向かう道ができる。ソロは、単に全員の出番を均等に数えるための項目ではない。
グループ曲では、複数の声や役割の関係を聴くことになる。ソロでは、一人の表現へ注意を集める時間が生まれる。その二つを一枚の中で行き来すると、個人を知った後にグループ曲へ戻ることもできる。ソロで感じた印象が、全員で歌う場面の受け取り方に影響するかもしれない。別々の作品を孤立させるより、戻る道を持った入口として見ると面白い。
ただし、ソロ曲名だけからメンバーの性格や私生活を説明するのは避けたい。作品として選ばれた言葉と、本人の内面がそのまま一致するとは限らないからだ。題名は音楽への入口として読み、実際に聴いた表現を自分の感想として受け止める。その距離があることで、一人を固定的な人物像へ閉じ込めずに、次の作品で違う姿を見せる余地も保てる。
また、どの形態に何が収録されるかは作品情報で区別する必要がある。アルバム名が同じでも、通常盤や限定盤、配信で収録内容が一致するとは限らない。ここで大切なのは商品を増やすことではなく、いま聴いている作品のまとまりを正確に捉えることだ。ソロを含む版で聴く場合とグループ曲を中心に聴く場合では、一枚を終えたときに残る関係も変わる。
歌番組とMV撮影を題材にする、二つの映像
「君じゃなきゃだめなんだ」のミュージックビデオは、レーベルの紹介で歌番組の収録形式を用いた作品とされている。一方、『CRAZY ROMANTIC!』の「NO MORE YOU」は、ミュージックビデオ自体の撮影を題材にした作品として発表された。どちらも、音楽が人に見られる場を映像の題材にしているという共通点がある。
この共通点は、単に昔風の衣装や雰囲気を楽しむ以上の問いにつながる。歌番組では、歌い手は番組の中でパフォーマンスを見せる存在になる。MVの撮影を題材にする場合には、音楽を映像へする行為そのものが作品の中に入ってくる。見せることをさらに見せる構造がある、と考えられるだろう。具体的な場面は映像を確認して確かめる必要があるが、公式の設定だけでも比較の軸はつくれる。
懐かしさは、すべての視聴者が同じように持っている感覚ではない。ある時代の歌番組を知る人には記憶とつながり、知らない人には初めて見る表現として届く。同じ映像が、回想と発見という異なる経験を生む。リバイバルを過去を知る人だけの楽しみと考えず、違う時代の見せ方を現在へ持ってくる方法として受け取ると、入口が広がる。
この二作を並べると、A.B.C-Zの映像表現は歌とダンスを記録するだけではなく、それらをどんな枠で見せるかにも関わっているとわかる。歌番組、MV、舞台という枠が変わると、同じ歌い手への視線も変わる。映像の設定を知ったあとで音源へ戻ると、自分がどの印象を画面から受け取っていたかも意識できる。音と映像を分け、再び結ぶ鑑賞が可能になる。
『CRAZY ROMANTIC!』は、時代の違う作り手を同席させる
二〇二五年十月二十九日発売の『CRAZY ROMANTIC!』は、さまざまな時代の音楽や文化を組み合わせる作品としてレーベルから紹介された。参加する作家には、サンプラザ中野くん、パッパラー河合、森浩美、林田健司、松井五郎、竹内アンナなどの名前がある。こうした制作の幅を確認すると、リバイバルを一つの過去の様式へ戻る行為とだけ考えずに済む。
ある時代を再現することと、異なる時代の要素を同じ現在へ置くことは違う。前者では特定の時代との近さが重要になり、後者では要素同士の出会い方が問題になる。『CRAZY ROMANTIC!』を考えるなら、誰が参加し、どんな役割で作品に関わるかを見たほうが、懐かしいという一語より具体的だ。作家名は飾りではなく、作品が複数の制作の場と接していることを示す。
同時に、作家の活動歴だけから曲の音を決めつけないことも大切になる。以前に知られた仕事と、今回の楽曲が必ず同じ特徴を持つとは限らない。クレジットは比較の入口であり、録音を聴く代わりにはならない。それでも、誰の仕事がどの曲にあるかを知ることで、聴く際の注意が変わる。音楽の印象と制作情報を往復できるようになる。
全十五曲の作品を、幅広いから統一感がないと捉える必要もない。同じ歌い手が異なる制作と出会うことが、一枚をつなぐ関係になる場合があるからだ。多様な作家とA.B.C-Zの声が交わる場所として見ると、グループの個性は一つのジャンルへ固定されずに現れる。何でも同じように歌うことより、異なる曲を一枚の活動として受け止める広さに注目したい。
「鈍学塁功・DONGAKU-RUIKO」で制作の三つの仕事を読む
『CRAZY ROMANTIC!』に収録された「鈍学塁功・DONGAKU-RUIKO」は、サンプラザ中野くんが作詞、パッパラー河合が作曲、亀田誠治がアレンジを担当したと公式に発表されている。この明確な分業は、一曲を誰がつくったかという問いを細かく考えるための材料になる。作り手を一人の名前で代表させず、言葉、曲、編曲という役割を分けて見ることができる。
歌詞を書くことと、旋律などの曲をつくること、録音としての形に関わる編曲は、それぞれ違う仕事だ。実際の制作でどのようなやり取りがあったかは公表情報を超えて想像しないとしても、複数の役割が一曲へ集まっていることは確認できる。そこへ歌い手としてA.B.C-Zが参加する。作品は、作家の名前と歌う人の名前のどちらかだけでは説明しきれない。
この曲をアルバムの中で聴くときには、作家の別の仕事との連想が生まれる人もいるだろう。一方、その名前を知らずに初めて曲へ出会う人もいる。前者の経験だけを正しい理解として優先する必要はない。背景を知って聴き直すことで印象が増えることもあれば、先に持った感想を大切にしながら制作情報を加えることもできる。知識と体験の順番は一つではない。
この三つのクレジットは、アルバムが掲げる時代の交差を、抽象的な宣伝の言葉から実際の仕事へ戻してくれる。誰かの過去の名声を借りたと見るだけでも、すべてをグループの表現として一括りにするだけでも足りない。異なる担い手が同じ曲に関わり、その曲を四人が現在の作品として届ける。その関係を押さえることが、リバイバルの中にある新しい制作を見つける方法になる。
『CONNECTION Vol.1』では、他者を迎える側になった
二〇二五年七月、A.B.C-Zは『CONNECTION Vol.1』という主催ライブを行い、二日間にそれぞれ純烈とBREAKERZを迎えた。レーベルの公式報告から、この開催とゲストの組み合わせを確認できる。ムード歌謡コーラスグループとロックバンドという異なる相手を迎える企画は、自分たちだけの公演とは別の関係をつくる。
ここでA.B.C-Zは出演者であると同時に、別の表現者を迎える側に立つ。観客に自分たちの作品を見せるだけでなく、他の音楽との出会いが起きる場を用意する役割がある。これはアルバムで異なる作家を迎えることとも比較できる。録音の内部で他者の仕事と出会う方法と、ライブの場で他者と並ぶ方法が、異なる形で活動を外へ開いている。
共演の面白さを、観客全員が盛り上がったという未確認の描写へ置き換える必要はない。企画の構造だけでも、普段異なる音楽に親しむ人が同じ場所へ集まる可能性があると考えられる。それぞれのグループの持ち味を消して統一するのではなく、違いを保ったまま同じ催しに参加する。接点は、似ていることだけから生まれるわけではないのだ。
また、公式発表ではイベントロゴを戸塚がデザインしたことも示されている。歌唱以外の役割が企画の見え方に関わる例として興味深い。誰が歌うかだけでなく、どんな名前と見た目で催しを提示するかにも制作がある。『CONNECTION』という題名を単なる飾りにせず、他者を迎える構造とメンバーの参加の具体性から読むと、A.B.C-Zの表現を広げる一つの実践として理解できる。
『ABC座2024 大金星』は、四人が役を演じる場所だった
『ABC座2024 大金星(BIG VENUS)〜時代を超えて〜』の公式キャストには、橋本、戸塚、五関、塚田の四人が並び、脚本は斎藤栄作、演出は河原雅彦と記されている。さらに内博貴や彩吹真央らが参加している。グループ名を掲げた舞台であっても、四人だけで完結する作品ではなく、脚本家、演出家、共演者とともにつくられる場であることがわかる。
コンサートでは、歌い手の名前と舞台に立つ人の名前が直接結びつくことが多い。一方、演劇では本人が別の役を担う。その違いは、同じ人を見るときの視線を変える。役が話す言葉や取る行動を、そのまま本人の性格として受け取るわけにはいかない。グループのメンバーを知っているほど、本人への親しみと役への理解を行き来する鑑賞になる。
この舞台を音楽活動と結びつけるときにも、出演した経験がどの曲のどの表現に直接影響したかを、根拠なく断定する必要はない。確実に言えるのは、四人が音楽の作品と、脚本や演出を持つ舞台の両方に参加していることだ。異なる作品の条件で歌い、演じる経験が並存している。その事実から、それぞれの形式で何が変わるかを聴き手側が考えることはできる。
また、共演者やスタッフの名前を確認すると、A.B.C-Zの舞台をグループの内輪の物語としてだけ見ずに済む。他者の脚本と演出の中へ入り、別の役者と同じ作品を成立させる関係があるからだ。グループの個性は、外の仕事と出会うことで失われるのではない。その条件の中でどう見えるかを確かめることも、一人ひとりの表現へ近づく方法になる。
歌う人、演じる人、場をつくる人を重ねて考える
DVDシングル、主催ライブ、『ABC座』を並べると、A.B.C-Zのメンバーが同じ形で観客の前に立っているわけではないことがわかる。映像作品では、画面を通して歌を届ける。主催ライブでは、自分たちの出番に加えて他者を迎える場に関わる。演劇では、役を通して物語の出来事を担う。どれも見る人へ向けた表現だが、求められる関係は違う。
その違いを踏まえると、舞台に強いという言葉にも具体的な問いを添えられる。どの舞台で、どんな役割を担っているのか。グループとして歌う時間なのか、別の人物として演じる時間なのか、共演者へ場を渡す時間なのか。強さという抽象的な評価を先に置くより、役割の切り替わりへ目を向けたほうが、実際の作品に即した鑑賞になる。
これは歌と演技のどちらが優れているかを決めるための比較ではない。同じ人が異なる形式に参加することによって、観客の注意の向け方も変わることを確かめる比較だ。曲の意味を声で受け取る場合と、物語の状況を役の行動から受け取る場合では、見ている単位が異なる。その違いを知ったうえで両方を見ると、一方を他方の予備知識としてだけ消費せずに済む。
アルバムへ戻ったときにも、この視点は役立つ。一曲の語り手を本人と完全に重ねず、作品の中で担われる表現として聴けるからだ。歌詞の一人称と歌い手の私生活を同一視しないことは、音楽の想像力を広く保つ。舞台と音楽を往復する楽しさは、本人をもっと知ったつもりになることだけではなく、同じ人が別の表現を担えることに出会う点にもある。
『THE WAY』から『The Way of L.O.V-E』へ、二つの作品をつなぐ
二〇二六年七月のEP『THE WAY』と、九月三十日発売の十枚目のフルアルバム『The Way of L.O.V-E』は、公式に続く関係の作品として紹介されている。似た題名だから同じ作品の別表記なのではなく、EPとフルアルバムという異なる発表がある。この区別を押さえると、活動の道を示す作品から、そこへ愛というテーマを加える展開を考えられる。
道という言葉には、すでに通ってきた跡と、これから進む先の両方を連想できる。そこへ愛という広いテーマが加わると、誰と、何に向かって進むのかという問いが生まれる。これは本人たちの意図を独自に代弁するものではなく、公式に示された続編という関係と題名から広げる鑑賞だ。作品同士のつながりを知ることで、一枚のタイトルにも前後の時間が見えてくる。
EPはフルアルバムの不完全な前段階というわけではない。それぞれの長さとまとまりで作品として成立し、そのうえで続く関係を持つ。小さな単位で示されたテーマが、別の規模の作品へ開かれることもある。先にフルアルバムを知った人がEPへ戻る道もあるため、発表順をそのまま鑑賞の必須順序にしなくてよい。
『F.O.R』の長い呼びかけ、『CRAZY ROMANTIC!』の時代を組み合わせる発想、そしてこの二作の道と愛というテーマを比べると、近年の作品が同じ名前だけを繰り返しているわけではないとわかる。共通する方向を持ちながら、焦点の当て方を変えている。その変化を作品の規模や関係から捉えることで、新作を単なる追加の曲集以上のものとして聴くことができる。
「幾何学模様LOVE」は、戸塚の言葉が外の企画と出会う曲だ
『The Way of L.O.V-E』に収録された「幾何学模様LOVE」は、戸塚祥太が作詞し、PAKshinが作曲、CHOKKAKUが編曲を担当した曲として公式に掲載されている。また、書籍『ゲッターズ飯田の五星三心占い2027』との企画上の関係が示されている。メンバー自身の制作参加と、グループの外にある企画との接点が、一曲の中に重なっている。
ここで作詞を担当したことは、曲全体のあらゆる工程を一人で担ったという意味ではない。作曲者と編曲者の名前も確認することで、メンバーの創作と他者の音楽が共同で作品になる過程が見える。本人が関わった曲を特別なものとして聴く場合でも、その特別さを他の制作者の仕事を消す理由にしないことが大切だ。
また、書籍と結びついた企画上の呼び名を、音楽を聴けば実際に運が変わるという効能として扱う必要はない。作品がどんな企画から生まれたかという来歴と、聴き手が音楽から受け取る経験は分けて考えられる。曲には発表時の役割があり、その後はアルバムの一曲として、企画を知らない人にも届く。その移動が音楽の持つ広がりになる。
この曲を、イベントロゴの制作と並べて考えると、戸塚の参加が歌唱だけでなく言葉や視覚へ広がることがわかる。ただし、異なる仕事をすべて同じ表現として一括りにせず、それぞれで何を担当したかを具体的に見るほうがよい。ロゴは催しの見え方をつくり、歌詞は曲の言葉を担う。役割の違いを残したまま比較することで、個人の創作がグループの活動へどう接続するかを理解できる。
「マジマジック」とリミックスは、一曲の別の関係をつくる
『The Way of L.O.V-E』には「マジマジック」と「マジマジック(80KIDZ Remix)」が収められている。同じ曲名を持ちながら、片方にはリミックスであることと担当者の名前が示されている。この二つの存在は、一曲を唯一の完成形としてだけ見るのではなく、別の制作によって関係が増えるものとして考える入口になる。
リミックスを原曲より新しいから上位、あるいは原曲から離れるから補足と決める必要はない。それぞれの作品が異なる条件で聴かれ、違う入口になりうる。具体的にどの音がどう変わったかは実際の録音で確かめるべきだが、同じ一枚に二つの版があるという事実から、比較する行為そのものが作品体験に含まれると考えられる。
この比較は、アルバムが掲げるさまざまな愛というテーマとも、鑑賞上の接点を持つ。一つのものに一つの形だけを求めず、異なる表現として受け取ることができるからだ。ただし、それをリミックス制作の公式な意図と断定する必要はない。テーマを知った自分が二つの版をどう聴くかという問いとして残すほうが、感想の自由と事実の正確さを両立できる。
リバイバルとリミックスも、似ているようで同じではない。過去の時代や文化を現在へ呼び戻す発想と、具体的な曲を別の形へつくり直す仕事には、対象と工程の違いがある。『CRAZY ROMANTIC!』から本作へ進む際には、その違いを意識すると音楽の更新の方法が見えてくる。昔らしさを加えることだけが更新ではなく、既存の一曲へ別の制作者が関わることでも、新しい作品の関係は生まれる。
原点へ戻る道と、新しい場所へ出る道を両方持つ
A.B.C-Zの作品を横断すると、原点を残しながら入口を増やす活動が見えてくる。DVDシングルで始まった曲が、後年の公演で再び歌われる。音源が配信へ広がり、アルバムにはソロやリミックスが加わる。舞台では役を演じ、主催ライブでは別のアーティストを迎える。同じグループ名の下に、作品の条件が異なる複数の場がある。
そのため、A.B.C-Zを一つの特徴だけで説明し終えないほうがよい。映像に強い、舞台に縁が深い、時代を感じさせる表現があるという入口は使えるが、どれも個別の作品へ戻って具体化できる。『Za ABC〜5stars〜』では媒体、『F.O.R』では相手への呼びかけとソロ、『CRAZY ROMANTIC!』では作家の交差、『The Way of L.O.V-E』では続編とリミックスという違いがある。
また、過去の五人体制の作品と現在の四人の作品は、どちらか一方で歴史を説明し尽くす関係ではない。それぞれの録音や映像を、その時期に成立した作品として受け止めればよい。新しい公演で過去の曲に出会ったとき、旧作へ戻って違いを確かめることもできる。継続とは同じ姿を保存し続けることだけではなく、過去との関係を現在の作品でつくり直すことでもある。
音源から映像へ、映像から舞台へ、舞台からもう一度アルバムへ。その往復によって、歌う人と演じる人と場をつくる人が、同じ四人の中で異なる役割を持っていることに気づく。すべてを知ってから好きになる必要はない。一曲や一本の作品に惹かれたところから、次の接点を見つければよい。A.B.C-Zを聴き、見る面白さは、作品の数だけでなく、作品同士を結ぶ道の数を増やしていけることにもある。
