
掲載画像は本稿のためのAIイラストです。実際の出演者の容姿・衣装・会場を再現した公演写真ではありません。
江戸川の祭り、高輪ゲートウェイ駅前、そして氣志團万博。実際に足を運んだ人の言葉には、出演情報を読むだけでは伝わらない温度がある。「かなりの盛り上がり」「かつてのファンも集まっていた」「OZMA、PANCHO、KINGとみんな出演していた」。この三つの実感を出発点に、DJ OZMAのステージと、再びその場所へ集まるファンの楽しさを考える。
| 出演の記録 | 時期・場所 | 確認資料 |
|---|---|---|
| 江戸川納涼祭 | 2026年7月19日 カヌー・スラロームセンター | 公式開催案内・出演報道 |
| 高輪のサマーライブ | 2026年7月31日 高輪ゲートウェイ駅前 Gateway Park | 公演報道 |
| 氣志團万博2026 | DJ OZMAは11月7日の出演枠 幕張メッセ | 公式出演者一覧・公演案内 |
01 まず残したいのは、「実際に見に行った」という言葉
DJ OZMAが氣志團万博に出演した。そう書けば、一つの出来事は伝えられる。しかし、今回の話には、その一文の先がある。私は江戸川の祭りにも、高輪の駅前にも、氣志團万博にも、実際に見に行った。そこにはかなりの盛り上がりがあった。以前から応援していたファンも集まっていた。そしてOZMAだけでなく、PANCHOもKINGも出演していた。まずは、この体験の中心を、そのまま大切に残したい。
音楽について書くとき、つい大きな表現を探したくなる。伝説、奇跡、完全復活、歴史的瞬間。どれも強い言葉だが、その言葉を先に置くと、目の前で何がうれしかったのかが見えにくくなることもある。今回は、好きな人たちが同じステージにいて、見に来た人たちが盛り上がっていた。その率直な事実と感想の組み合わせに、十分な強さがある。特別な物語を外から足さなくても、再会そのものが記事の主役になる。
「実際に見に行った」という言葉には、自分で時間を選び、その場所へ向かったという行動が含まれている。告知を見かけることと、現地に立つことの間には、距離がある。予定を確かめる。移動を考える。その日の時間を空ける。具体的な事情は人それぞれでも、会場に集まるまでには一人ずつの生活がある。ファンが集まっていたという景色は、そうした選択が重なった結果として受け止めることができる。
その意味で、客席は単なる人数の集まりではない。久しぶりに会いに来た人も、以前から機会を待っていた人も、別の目的で訪れて興味を持った人も、一般には同じイベントの中に存在し得る。今回、個々の来場理由までは分からない。それでも、体験者が「かつてのファンも集まっていた」と感じたことは、この公演を語るうえで欠かせない。ステージに立つ側の再登場と、見る側の再集合が、同じ場所で重なっていたからだ。
ライブの記録には、曲名や時間と同じくらい、見終えて何を持ち帰ったかが大切になる。今回持ち帰られたのは、OZMA、PANCHO、KINGの三人がいたという喜びと、会場が大きく盛り上がっていたという実感だった。この記事は、その感想を細かな作り話へ引き延ばすためのものではない。なぜその実感が強く残るのかを、音楽、場所、ファン、時間という複数の角度から丁寧にほどいていくためのものだ。
02 三つの場所を、一続きの体験として振り返る
江戸川、高輪、氣志團万博。この三つの名前を並べると、同じアーティストを見るという行為にも、いくつもの入口があることが分かる。地域で開かれる祭り。日常の往来に近い駅前のイベント。そして複数の出演者が集まる音楽フェス。公演の規模や開催目的を一つにそろえる必要はない。むしろ、異なる環境に足を運んだからこそ、DJ OZMAという存在を一度きりの話題で終わらせず、自分の中の連続した体験として受け止められる。
江戸川の催しについては、椎名慶治の公式サイトに「2026江戸川納涼祭」の開催案内があり、7月18日・19日、葛西臨海公園に隣接するカヌー・スラロームセンターが会場と記されている。DJ OZMAの出演日は地域報道で7月19日と案内されている。本稿では、依頼者のいう「江戸川区祭」を、この出演情報と対応する江戸川納涼祭として整理した。10月に開かれる江戸川区民まつりとは別の催しである。[1][2]
高輪については、7月31日に高輪ゲートウェイ駅前のGateway Parkで行われた「ノンアル サマーライブ@TAKANAWA GATEWAY CITY」への出演が、当日の報道で確認できる。そして氣志團万博2026の公式出演者一覧には、DJ OZMAの名前が掲載されている。イープラスの公演案内でも、11月7日の出演と幕張メッセでの開催を確認できる。[12]こうした外側の情報と、本人が見に行ったという内側の体験を重ねることで、三つの場所を振り返る足場ができる。[3][4]
ここで大切なのは、三公演の間に、資料にない筋書きを作らないことだ。江戸川が何かの試運転だった、高輪がその成果だった、氣志團万博が最終到達点だった、といった制作側の意図までは分からない。けれども、見る側の記憶の中で三つの場所がつながることは自然だ。一つの公演を見た後に、別の場所でまた会う。その積み重ねが、出演を単発のニュースから、自分が参加してきた時間へと変えていく。
同じ名前を別の場所で見つけるたび、前に見たときの記憶が比較の基準になる。そこで比較したいのは、どこが一番だったかという順位だけではない。なぜまた見たいと思ったのか。三人がそろうことを自分はどれほど大切に感じていたのか。昔からのファンが集まる光景を、どう受け止めたのか。三公演を振り返る価値は、違いを採点することより、自分の好きなものの輪郭が少しずつはっきりしていくところにある。
03 江戸川の祭りで会えるという、身近さの力
地域の祭りにアーティストが出演することには、専用のライブ会場とは異なる意味がある。音楽だけを目的に訪れる人と、祭りそのものを楽しみにする人が、同じ場所へ向かう可能性があるからだ。食べ物、催し、家族との外出、地域の行事。祭りには複数の楽しみが並び、その中に音楽のステージが置かれる。DJ OZMAを見るという目的を持って訪れた人にとっても、音楽が暮らしに近い場所へ出てくること自体が、一つの魅力になる。
もちろん、今回の江戸川の客席にどのような人が何人いたのかを、ここで決めつけることはできない。家族連れが特定の反応をした、子どもがある曲で踊った、近隣の住民が驚いた、といった場面は、提供された体験には含まれていない。ただ、地域の祭りという開催形態を考えると、アーティストを知る経路が一つに限られないことは重要だ。ずっと好きだった人にも、名前だけ知っていた人にも、偶然知る人にも、出会いの余地がある。
有名な曲を持つ人が身近な場所へ来ると、音楽との距離が変わる。遠いテレビの中、音源の中、過去の映像の中にあった名前が、実際に見に行ける存在になる。その変化は、どんなに大きな宣伝文句よりも具体的だ。「あの人が来る」という情報をきっかけに、自分も行ってみようと考えられる。来場という行動に結びつくところまで音楽が近づくことは、長く活動を知る人にとっても、新しい発見になり得る。
祭りの出演は、音楽を特別な趣味として構える必要を少し軽くしてくれる。すべての作品を知っていなければいけないわけではない。普段からライブに通う人でなければ楽しめないわけでもない。目の前のステージを見て、面白いと思う。その単純な入口が保たれていることに、祭りという場のよさがある。長い経歴を持つアーティストほど、知識の量を問わずに出会える機会は、次の聴き手へ届く大切な窓口になる。
江戸川で見たことを、後になって氣志團万博の体験とつなげて振り返ると、その身近さには別の価値も生まれる。大きなフェスの名前だけが履歴に残るのではなく、自分の記憶には、地域の祭りで見に行ったという一場面も残る。音楽の歴史は、著名な会場や大きな動員だけでできているのではない。誰かが実際に足を運び、そこで好きな人たちを見たという、個人的で具体的な時間の積み重ねでもある。
04 高輪駅前で、日常とライブが近づく
駅前という場所には、独特の開かれ方がある。駅は多くの人にとって、何かを見に行く目的地である前に、生活の途中で通る場所だ。移動、待ち合わせ、仕事、買い物。そうした日常の動線に近いところでライブが行われると、音楽を見ることが普段の暮らしと隣り合う。高輪ゲートウェイ駅前でDJ OZMAが出演したという出来事は、その距離の近さも含めて印象に残る。
これは、今回の来場者が通勤の途中だったと述べているわけではない。体験者は実際に見に行ったと話している。ここで考えたいのは、会場の性格だ。ライブハウスへ入り、開演を待つときの集中と、駅前の広場に音楽の場が生まれるときの開放感は、同じものではない。どちらが優れているかではなく、アーティストの魅力を受け取る背景が変わる。場所が変わることで、知っている名前にも違う近づき方ができる。
高輪のイベントについて、ENCOUNTはサントリーのノンアルコール飲料に関連する入場無料のライブとして報じている。また、DJ OZMAがその場で氣志團万博への出演を話したことも伝えている。夏の駅前に集まる機会と、その先のフェスの情報が同じ場にあったことは、今回の三つの体験を考えるうえで意味がある。ただし、この記事では報道中の発言を来場者自身の記憶へ置き換えず、公表された背景として扱う。[3]
駅前でのライブを魅力的にするのは、日常から非日常への切り替わりを身近なところで感じられる点だ。特別な場所へ遠く移動しなくても、音楽を聴く時間を持てる。いつもとは違う使い方をされた広場を見るだけでも、街の印象は変わり得る。音楽は建物を建て替えなくても、その場所の記憶を変えられる。「駅の前」という説明に、「そこでDJ OZMAを見た」という個人の体験が付け加わるからだ。
そして、その記憶は会場から離れた後にも残る。別の日に駅名を目にしたとき、ライブのことが頭に浮かぶかもしれない。そうした結びつきは、会場の大きさや設備の豪華さでは測れない。自分の生活の地図に音楽の印が一つ増える。その意味で、高輪駅前での出演は、公演の一回分であると同時に、街とアーティストの名前を結びつける体験でもある。江戸川から続く記憶に、新しい場所の手触りが加わったと考えられる。
05 氣志團万博にDJ OZMAの名前がある重み
氣志團万博の出演者一覧にDJ OZMAの名前がある。その情報だけでも、見たいという気持ちが動く人はいるだろう。フェスの出演者は、単に順番に並べられた名前ではない。誰を目的に行くか、誰を初めて見るか、どの時間を楽しみにするかという、来場者一人ひとりの一日の組み立てにつながっている。そこにDJ OZMAが加わると、以前からのファンには、再会の場所としての意味が生まれる。
公式の出演者一覧には、多様な出演者が並んでいる。DJ OZMAを中心に読みたいこの記事でも、その多様さを背景から消す必要はない。フェスでは、一組だけの作品世界に最初から全員がそろっているわけではないからだ。それぞれの目当てを持って集まった人たちが、ある時間帯には同じステージへ注意を向ける。その交差の中で、よく知られた曲や強いキャラクターを持つアーティストが、どのように届くかという面白さが生まれる。[4]
今回の体験者が残した「かなりの盛り上がり」という感想は、その場所に足を運んだからこそ言える言葉だ。人数の統計や、全観客の評価を意味するものではない。けれども、体験者の視点から受け止めた熱気としては、十分に大切な情報である。音楽のレビューは、誰の位置から語っているかが分かることで読みやすくなる。会場全体を代表する声であるかのように広げず、一人の来場者の実感として届けるほうが、その温度はかえって伝わる。
氣志團万博という名前には、主催する氣志團を知る人それぞれの連想が重なる。ただし、DJ OZMAとの関係を何でも内輪の冗談として処理してしまうと、初めて読む人には入口が狭くなる。知っている人だけが分かる話も楽しいが、ステージの魅力は、その知識がなくても届く余地を持っている。三人がそろうこと、曲を知る人がいること、目の前の時間を楽しむ人がいること。その基本から書くことで、既存のファンにも新しい読者にも開いた記事になる。
江戸川や高輪からこの場所へ足を運んだ人にとって、氣志團万博は、一連の体験を振り返る大きな節目にもなる。前にも見た、また見られた、今回はこの場所だった。その積み重ねがあると、出演者の名前は記号ではなくなる。告知の中にあったDJ OZMAが、自分の見たステージとして記憶に収まる。今回のコラムが大切にしたいのは、まさにその変化である。
06 「かなりの盛り上がり」を、数字に置き換えず受け止める
ライブのよさを説明しようとすると、動員数や再生数、SNSでの反応数が使われることが多い。それらは、それぞれ異なる側面を示す資料として役立つ。一方で、今回の依頼者の感想は、そうした数字を伴っていない。「かなりの盛り上がり」。その言い方は、現地で受け止めた強さを率直に表している。数字がないから弱いのではなく、数値とは別の種類の記録として読めばよい。
盛り上がりには、音量だけでは説明できない部分がある。見る側がその時間にどれほど気持ちを向けたか、出演者の存在をどう受け止めたか、知っている曲や人物との再会をどれほど喜んだか。こうしたことは、拍手の大きさだけから正確に読み取れるものではない。それでも、一人の来場者が公演を振り返って強い言葉を残すとき、そこには、その人が印象的な時間を過ごしたという確かな手掛かりがある。
ただし、その手掛かりを、全員が同じ感想だったという結論へ飛ばしてはいけない。同じ場所にいても、見る位置や目的、知っている曲、体調によって、受け取るものは変わる。熱気を語ることと、多様な感じ方を認めることは両立する。むしろ、自分の感想として誠実に書かれた熱気のほうが、読者は信頼して受け止められる。宣伝のように隙間なく称賛する必要はない。
今回、盛り上がりと同じ文章の中に「かつてのファンも集まっていた」という記憶があることが興味深い。単ににぎやかだっただけでなく、以前からの関係がそこへ戻ってきているように感じられたのだ。久しぶりの人が何を思っていたかまでは代弁できない。それでも、その存在を見た人が気に留めたということは、公演の印象がステージだけで完結していなかったことを示している。
舞台上の三人と客席の記憶が重なるとき、盛り上がりは、その日の音だけから生まれたものではなくなる。過去に聴いた経験、名前を覚えていること、また会えると思って来たこと。そうした背景が、現在の楽しさに厚みを与える可能性がある。今回の短い感想を丁寧に読むと、DJ OZMAをめぐる熱気には、その場の勢いと、長い時間の積み重ねという二つの方向が見えてくる。
07 OZMA、PANCHO、KING。三つの名前を並べたい理由
今回の体験を象徴する言葉は、「OZMA、PANCHO、KINGとみんな出演していた」だ。出演者名として大きく掲げられるのはDJ OZMAでも、長く親しんできた人の記憶には、複数の人物が結びついている。中央に誰がいるかだけではなく、誰と誰が一緒にいるかが大切になる。そのような見方は、音楽を作品の名前だけでなく、人の組み合わせとして受け取ってきたファンならではのものだろう。
ユニバーサル ミュージックの紹介では、DJ OZMAは音楽制作やイベントなどにも携わるクリエーターとして説明され、KINGは作品にボーカリストとして、PANCHOはダンサーとして参加する存在として紹介されている。PANCHOのラップにも言及がある。少なくとも、三人の名前を同じ文脈で語ることには、公式プロフィール上の根拠がある。人物紹介に含まれる演出的な設定や冗談を現実の経歴として広げる必要はない。[5]
三人がそろうことの魅力は、個別の能力を足し算しただけでは説明しきれない。人はしばしば、声、動き、表情、立ち位置といった複数の要素を、一つのまとまりとして覚えている。ある名前を聞くと、その隣にいた人まで思い浮かぶ。その組み合わせが再び目の前にあるとき、音楽を聴く記憶と、人を見る記憶が同時に働く。今回の「みんな」という一語には、そうしたまとまりへの親しさが表れている。
三人の誰が最も重要かを決めると、この感想のよさは小さくなってしまう。体験者がうれしかったのは、三つの名前が一緒に並んでいたことだからだ。それぞれに注目することと、一組として受け止めることは、行き来できる。歌に耳を向け、動きに目を向け、全体の見え方へ戻る。その複数の見方があるから、同じアーティストを繰り返し見に行くことにも、毎回違う楽しみが生まれる。
また、「みんながいた」という喜びは、過去の全メンバーや全スタッフの参加を意味する言葉ではない。ここでは、依頼者が名前を挙げたOZMA、PANCHO、KINGの三人を指している。その範囲を保ったままでも、十分に感情は伝わる。大切にしてきた組み合わせにまた会えた。今回の出来事をファンの目線で書くなら、その率直な喜びを記事の中心に置きたい。
08 DJ OZMAという、音楽と場づくりをつなぐ存在
DJ OZMAという名前から、最初に代表曲を思い浮かべる人は多いだろう。SMAの公式プロフィールでは、2006年3月22日に「アゲ♂アゲ♂EVERY☆騎士」でメジャーデビューしたことが紹介されている。同じプロフィールには、音楽に加えてファッションやクラブイベントなどに関わる活動も記されている。一つの曲の歌い手として知った人が、後からその周囲にある表現へ関心を広げられる人物像だ。[6]
この広がりを今回の体験に引き寄せて考えると、DJ OZMAの魅力は、音源を再生したときの楽しさと、実際に人が集まる場の楽しさをつなぐところにあるように思える。曲が知られていることは大きな入口だが、ライブで目にするのは音だけではない。誰が歌い、誰が動き、その全体をどう受け止めるかという、視覚と聴覚の組み合わせがある。OZMAの名前は、その一まとまりを呼び出す合図として働く。
ファンが「OZMAを見に行く」と言うとき、その言葉には、音楽を聴きに行くことと、ある種類の楽しい時間を過ごしに行くことが重なっているのかもしれない。今回の依頼者も、出演したという情報に加えて、盛り上がりを強く記憶していた。そこから読み取れるのは、公演を単なる曲の再生として受け取っていないということだ。人が集まり、その場で表現を受け取ること自体が、見に行く理由になっている。
名前の印象が強いアーティストには、先入観がついて回ることもある。派手そう、楽しそう、懐かしそう。そうした入口はあってよいが、実際に見る経験には、その先入観を自分なりに確かめられるよさがある。今回の感想も、一般的なイメージを説明しているだけではない。現地で三人を見たうえで、かなり盛り上がっていたと話している。その経験を経た言葉だからこそ、単なる紹介文よりも手応えがある。
DJ OZMAの名前を知っていても、PANCHOやKINGまで意識していなかった人はいるだろう。そうした読者にとって、今回の体験談は見方を広げる入口になる。誰が一緒に表現を作っているのかを知ると、作品の受け取り方は変わる。一人の名前から入り、三人の関係へ視野が広がる。その過程自体が、長く音楽を楽しむことの面白さでもある。
09 PANCHOを見ることで、音楽が動きとして伝わる
PANCHOの存在を考えるとき、まず注目したいのは、音楽が身体の動きとして見えることの意味だ。公式の紹介がダンサーとしての参加を伝えているように、歌とともに動きがある表現では、見る側はリズムを耳だけで受け取るわけではない。どこで力が入るのか、どこで間が生まれるのか。身体は、音の流れを目に見える形へ変えることができる。これは、特定の公演の振付を再現する話ではなく、ダンスを含むステージ一般の魅力である。
ダンスには、観客に楽しみ方を伝える働きもある。音楽を専門的に分析できなくても、動きを見て拍の感覚をつかめることがある。初めて聞く曲でも、身体の動きがあることで、どこへ気持ちを向ければよいかが分かりやすくなる。参加しやすいステージは、観客へ細かな知識を要求せず、目の前の表現そのものを案内役にできる。PANCHOを見たいという気持ちには、そうした身体表現への期待も重なるだろう。
ただ動きが大きければよい、速ければよいというわけではない。ダンスを見る面白さは、動きと止まり方、主役になる瞬間と周囲を支える瞬間、音との距離の取り方など、さまざまな関係にある。一人の身体を見ているようで、実際にはステージ全体の流れを見ている。その視点を持つと、歌い手の周囲にいる人物は、背景ではなく、表現を構成する重要な存在として見えてくる。
今回の依頼者がPANCHOの名前をはっきり挙げたことは、その存在が記憶の中で独立した輪郭を持っていたことを示している。DJ OZMAが出演した、という一文だけでは、そこが抜け落ちる。何を見に行き、誰との再会を喜んだのかを伝えるには、名前を省略しないことが大切だ。ファンの言葉にある固有名詞を残すことは、体験の解像度を守ることにつながる。
長く同じ表現を見てきた人ほど、身体の動きに対する記憶は、説明しにくい形で残っているのかもしれない。詳しい技法の名前を知らなくても、好きな動きや印象はある。再びその人を見ることで、自分がどこを好きだったのかに気付くこともあるだろう。PANCHOが出演していたという短い言葉には、音楽を聴くだけでは得られない、そのような再発見の余地がある。
10 KINGがいることで、歌へ向かう入口が増える
KINGについて、公式プロフィールはボーカリストとして作品に参加することを紹介している。三人を語るうえで、声の存在は欠かせない。人は曲を覚えるとき、メロディーだけでなく、その声の印象や、複数の声が同じ作品の中にある感覚も一緒に覚える。誰が歌っているのかを意識すると、よく知っているつもりの曲にも、改めて耳を向ける場所が生まれる。
歌の魅力は、声量や音域のように数値へ近づけやすい話だけでは語りきれない。ある声が入ることで、曲の印象がどう変わるのか。ほかの表現と組み合わさったとき、全体にどんな奥行きが生まれるのか。この記事では、公演音声を分析したように細かな歌唱技術を評価することはしない。それでも、ボーカリストが一緒にいるという事実から、三人のステージを音の役割の違いとして考えることはできる。
見る楽しさと聴く楽しさが重なるステージでは、観客の注意は一か所に固定されない。全体を見ていたところから、ある声に耳が向く。動きに目を引かれた後で、歌の印象が残る。そうした視線と聴覚の行き来が、単調ではない体験を作る。KINGの名前が挙がることは、DJ OZMAの公演を、見た目の派手さだけで受け止めていないことにもつながる。
ファンにとっては、声の主がそこにいるというだけでうれしいこともある。音源で聞いていた人、映像で知っていた人、以前に実際に見たことがある人。その関係のどこから来ても、同じ空間で声の持ち主を見ることには独自の価値がある。今回の依頼者がKINGの参加を喜んだことも、そうした再会の一部として読むことができる。細かな場面を作らなくても、名前と存在だけで伝わる気持ちはある。
三人がそろうことを考えると、KINGは誰かの代わりとしてではなく、その名前で待たれる存在だと分かる。PANCHOにも、OZMAにも同じことが言える。それぞれへの関心が重なって、一組の公演を見たいという気持ちになる。ステージを共同の表現として受け止めるとき、KINGがいたという報告は、付け足しの情報ではなく、今回の体験を完成させる大切な要素になる。
11 三人の違いが、ひとつの楽しさになる
OZMA、PANCHO、KINGを個別に考えた後で、もう一度三人を並べてみる。歌、動き、音楽や場をまとめる存在。それぞれの役割は固定した箱の中に閉じ込められるものではないが、異なる表現が同じ場所にあることで、一人だけを見ているときとは違う楽しさが生まれる。客席は、人物を一人ずつ確認しながら、同時に全体のまとまりも受け取っている。
共同の表現には、同じことをすることで生まれる力と、違うことをすることで生まれる力の両方がある。動きや声が重なると、まとまりを感じやすい。一方で、個性の違いが見えると、注意を向ける場所が増える。どちらかだけではなく、その間を行き来できることが、複数人で作るステージの面白さだ。三人がそろっていたという喜びには、個々への親しさと、組み合わせへの親しさが同居している。
ここで、今回の実際の立ち位置や細かな掛け合いを知っているように描く必要はない。体験者が残した言葉から十分に分かるのは、三人の参加を大切に受け止めていたということだ。何がうれしかったかは、必ずしも舞台上の一瞬の動作だけに結びつくとは限らない。自分が親しんできた顔ぶれがそこにいる。それだけで、以前から知っている世界との連続性を感じられる。
この感覚は、音楽の聴き方が個人の端末へ向かいやすい時代にも、ライブが特別であり続ける理由の一つだろう。曲を一人で再生するときには、好きな部分だけを選べる。現場では、一つの時間の流れの中で、複数の表現を同時に受け取る。その選びきれなさが、かえって豊かさになる。視線をどこへ向けるかまで含めて、自分の体験ができあがるからだ。
三人の存在を順番に語ったからといって、公演を三つに分解しきれるわけではない。むしろ、個々の役割を知ったうえで全体へ戻ると、「みんながいた」という感想がいっそう具体的に響く。一人ずつの魅力を知っているから、そろうことがうれしい。そろった姿を見たから、一人ずつにもまた関心が向く。その往復が、長く応援することを支える楽しみになる。
12 「アゲ♂アゲ♂EVERY☆騎士」が、再会の入口になる
DJ OZMAを知る入口として、「アゲ♂アゲ♂EVERY☆騎士」は外せない。メジャーデビュー曲として公式プロフィールに記されるこの作品は、名前を聞いたときに、音楽を思い出すための具体的な目印になる。長く親しんだ人にとっても、曲名は知っているという人にとっても、同じ名前を共有できることは大きい。代表曲は、アーティストと観客を最初につなぐ橋になれる。
今回、高輪でのライブについて、マイナビニュースは複数曲の披露とともに、この曲が二度演奏されたことを報じている。ただし、それは高輪の公演について確認できる情報であり、江戸川や氣志團万博の曲順を示すものではない。ここでは曲順の完全再現よりも、代表曲が繰り返し耳に届くことの意味を考えたい。同じ作品でも、その前後や聞く場所が変われば、受け取り方は変わる。[7]
よく知られた曲には、説明を短くできる力がある。初めてアーティストを見る人でも、知っている曲に出会うと、それまで遠かったステージとの距離が縮まることがある。長く好きだった人には、過去の記憶と今の時間が重なる。両者は違う経路から来ているが、同じ曲を聞いている。その重なりが、広い客席を持つイベントで重要になる。全員が同じ知識を持つ必要はない。
一方、代表曲を一曲知っていることと、アーティストのすべてを知ることは別だ。今回のように、PANCHOやKINGの参加にも目を向けると、曲の印象の背後に人の関係が見えてくる。さらに別の作品へ関心が広がれば、代表曲は終点ではなく、作品世界への入口になる。大きく知られた一曲があることは、その先へ進む選択肢を狭める必要はなく、むしろ道を開くきっかけになる。
懐かしいと感じる曲を、今の自分がもう一度聞く。そのとき、曲が持つ時間と、自分が過ごしてきた時間が重なる。昔と同じように楽しめる部分も、違う意味で受け止める部分もあるだろう。今回の盛り上がりを考えるとき、「アゲ♂アゲ♂EVERY☆騎士」という名前は、単なるヒット曲の紹介以上の役割を持つ。人が再び集まるための、分かりやすく親しみのある入口なのである。
13 かつてのファンが集まるとき、客席にも時間が見える
「かつてのファンも集まっていた」。今回の感想の中で、この一文は特に心に残る。ステージに誰がいたかという話と、客席に誰が戻ってきたように見えたかという話が、同じ重さで語られているからだ。音楽を長く好きでいることは、作品を保存するだけでは終わらない。その音楽を好きだった人たちが、再び同じ場所にいると感じられることにも、独自の喜びがある。
ここでいう「かつて」は、応援をやめた時期や理由を一律に指すものではないだろう。ずっと好きだった人もいれば、しばらく日常から離れていた曲へ再び触れた人もいるかもしれない。個々の事情は分からないが、昔からの親しさを感じる人がいた、という体験者の受け止め方は尊重したい。客席の中に過去から続く関係を見つけることは、ステージを見る楽しさへ、もう一つの温かさを加える。
ファンという言葉を、常に同じ熱量で追い続ける人だけに限定すると、音楽と人との関係はずいぶん窮屈になる。生活には忙しい時期があり、別の関心へ向かう時期もある。すべての情報を追えなくても、ある曲を大切に思う気持ちが残ることはある。何年か経って出演情報を見つけ、また行きたいと思えたなら、その人なりの関係は続いていたと考えてよいのではないか。
再び集まる客席には、そのような間隔を受け入れる余地があるといい。久しぶりに来た人へ、知識の不足を試す必要はない。最近の活動をすべて把握しているかを問うより、同じステージを見たいと思って来たことを出発点にできる。好きという気持ちが再び行動になった。その事実を歓迎できる場所は、昔からのファンにも、これから関心を持つ人にも、居心地がよい。
この意味で、客席に昔からのファンがいたという記憶は、単なる懐古ではない。過去に親しんだ人が、現在の公演に関わっているという、今の出来事でもある。音楽を好きだった時間は、過去形で閉じなくてもよい。今また会場へ向かえば、新しい一回が加わる。今回の体験は、その単純で力強い可能性を感じさせる。再会とは、昔に戻ることだけでなく、続きを一つ作ることでもある。
14 懐かしさは、今を楽しむためにも働く
懐かしいという感覚は、ときに過去へ向かうものとしてだけ扱われる。けれども、ライブで懐かしい音楽に出会うとき、人は現在の自分としてその場にいる。昔の自分をそのまま再現できるわけではないし、再現する必要もない。今の生活、今の気分、今の身体で音楽を受け取る。過去の記憶が、今日の楽しさに新しい層を加えるのである。
同じ曲を聞いても、初めて知った頃と、時間を置いて再会したときでは、関心を向けるところが変わるかもしれない。以前は全体の勢いが好きだった人が、今は声や動きをじっくり楽しむこともある。逆に、細かなことを考えずに楽しい時間へ入れることを、改めてありがたく感じる人もいるだろう。どちらも自然な変化だ。音楽の価値は、同じ感じ方を永久に保つことだけでは決まらない。
今回の「かなりの盛り上がり」という感想からは、昔を振り返るだけで満足したのではなく、現地の時間を楽しんだことが伝わる。そこに以前からのファンの存在が重なると、懐かしさは現在の熱気を支える一つの要素として見えてくる。知っている人がいる、知っている名前がある、好きだった組み合わせにまた会える。安心して楽しみに入れる材料があることは、公演の魅力になり得る。
懐かしさを持たない人にも、同じステージを見る権利はある。初めて見た人には、過去の記憶の代わりに、今ここで知る面白さがある。長いファン歴を持つ人と、新しく関心を持った人の体験は、同一でなくてよい。むしろ、その違いが同じ会場にあることが、音楽の受け渡しを豊かにする。誰かの懐かしい曲が、別の誰かにとっては新しく出会った曲になる。
過去を大切にすることと、今の表現を楽しむことを分けすぎないほうが、DJ OZMAの今回の出演は捉えやすい。昔の姿だけを探せば、目の前の公演を見失うかもしれない。一方で、過去の記憶を無理に切り離す必要もない。覚えていることを持ち寄りながら、今の三人を見る。その柔らかい見方の中に、再会のライブならではの楽しさがある。
15 ファンでいることには、さまざまな速度がある
音楽との距離は、一人ひとり違う。新しい情報が出るたびに確認する人もいれば、公演の機会を知ったときに動く人もいる。音源を中心に楽しむ人、映像で見る人、現地に行くことを大切にする人。どの方法にも、それぞれの生活の中で音楽とつながる意味がある。今回の体験者が三つの場所へ足を運んだことは、その人自身の具体的な楽しみ方として読むことができる。
同じ人でも、その距離は時間とともに変わる。以前は頻繁に公演へ行けたが、今は一回を選んで大切にするということもあるだろう。逆に、以前は名前だけ知っていて、今になって現地で見始める場合もある。こうした変化を、熱心さの上下だけで評価すると、音楽を楽しむ余白が失われる。続け方が変わっても、好きなものへ向かう気持ちは、それぞれの形で存在できる。
「かつてのファンも集まっていた」という感想が温かく響くのは、その多様な速度を受け入れる余地があるからかもしれない。ずっと同じ場所にいた人だけでなく、久しぶりに来た人も同じ公演に参加できる。過去の空白を説明しなくても、目の前の音楽を楽しめる。応援の履歴を審査されない再会は、見る側の気持ちを軽くする。好きだった人へまた会いに行くことを、素直に選べる。
これは、今回の会場で具体的なやり取りを確認したという話ではなく、体験から考えたいファン文化のあり方だ。音楽の場には、長く知る人が蓄えてきた記憶を大切にすることと、新しく来た人へ入口を開くことの両方が必要になる。前者だけなら内向きになり、後者だけなら積み重ねが見えにくい。昔からのファンがいることを喜びながら、知らない人も気軽に入れる。その両方があると、再会の楽しさは次の機会へつながる。
今回、三つの場所を通してDJ OZMAを見た経験は、来場回数を競う材料としてより、音楽との関係が続いている一つの実例として受け止めたい。一回だけ行った人には一回分の大切な記憶があり、三回行った人には三回をつなぐ記憶がある。それぞれの時間を尊重できると、「また会えた」という言葉は、もっと多くの人に開かれたものになる。
16 「みんながいた」という喜びと、チームを好きになること
一人のスターを好きになることと、複数人の組み合わせを好きになることは、重なりながらも少し違う。スターの魅力は、その人へ集中して語ることができる。組み合わせの魅力には、誰かと誰かが同じ場所にいることによって生まれる意味が含まれる。今回、OZMA、PANCHO、KINGの名前が並んだことは、後者の楽しみをはっきり示している。
チームとして見る楽しさは、関係そのものを受け取れるところにある。人物それぞれの役割や個性を知るほど、全体の見え方に奥行きが生まれる。ある人に注意を向けた後で、別の人へ目を移す。その行き来によって、一つの公演の中に複数の楽しみ方ができる。全体を好きでありながら、個別の存在も大切にできる。その二重の親しさが、「みんな」という言葉を温かくする。
また、チームへの愛着には、自分の記憶の中で形が保たれていることへの安心もあるだろう。長く見ていない間にも、名前の並びを覚えている。出演情報を見たときに、ほかの人もいるのだろうかと気になる。実際に見て三人がいたことを確かめると、その組み合わせを大切にしていた自分にも気付く。今回の感想は、そうした見方があることを読者へ教えてくれる。
一方で、ファンが大切にする組み合わせは、出演者を固定した役割だけで見ることとは違う。それぞれが表現者であり、一人ひとりへの敬意があるからこそ、一緒にいることがうれしい。誰かを飾りや補助として扱わず、名前を呼び、存在を記憶する。その視点を持つことで、ライブのレビューも、一人の有名な名前だけへ還元されにくくなる。
三人がそろっていたという体験は、将来のすべての公演で同じ形が続くことを保証するものではない。だからこそ、その日に見られた組み合わせの価値がある。次を当然と思って消費するのではなく、今見られたことを喜べる。今回のコラムでは、活動の先行きを大きく断定するより、実際に見に行った人が三人の存在をうれしく受け止めた、その一点を長く残る言葉にしたい。
17 笑えることと、かっこいいと思うことは共存できる
DJ OZMAについて語るとき、楽しさやユーモアは重要な入口になる。けれども、笑えるということを、表現を軽く見る理由にする必要はない。人を楽しませることと、音楽やステージに魅力を感じさせることは、同じ場で成立し得る。見る側が緊張せずに入れるからこそ、歌や動きへ自然に注意を向けられることもある。笑いと格好よさは、互いを弱めるとは限らない。
ステージのユーモアには、観客との距離を近づける働きがある。完璧に遠い存在として見せるだけでなく、その場で一緒に時間を過ごしている感覚を作れるからだ。高輪の公演に関する報道にも、DJ OZMAの軽妙なトークが紹介されている。ただし、その内容を逐一引用するより、ここでは、音楽の間に言葉が入ることで公演全体の印象が作られるという点に注目したい。[3][7]
ライブでは、曲と曲の間も体験の一部になる。音が鳴っている時間だけを切り出せば作品は分かるかもしれないが、その場の人間らしいやり取りや間は、現地で見る楽しみにつながる。出演者の発言を実際の記録なしに再現することはできない一方、言葉を含めた全体を楽しみに行くという見方はできる。三人の顔ぶれに親しむファンほど、作品と人の両方へ関心を持ちやすいだろう。
ユーモアを大切にするときには、笑いの内容をそのまま事実認定しない読み方も必要になる。舞台上の誇張や設定は、表現の一部として受け取れる。たとえば出演の経緯を冗談交じりに話していたとしても、それだけで制作側の事情を断定しない。楽しみながら、どこが確認された情報なのかも分かる。その距離感があると、本人たちの表現を尊重した記事になる。
今回の「かなりの盛り上がり」という感想には、細かく分類しきれない総合的な楽しさが含まれているはずだ。笑ったのか、歌に引かれたのか、動きに目を奪われたのか、その内訳は語られていない。だからこそ、勝手に一つの理由へ決めず、複数の魅力が同居し得る表現として捉えたい。楽しいと格好いいの間を自由に行き来できることは、DJ OZMAを語るうえで豊かな視点になる。
18 アゲアゲという言葉を、楽しむ入口として読む
「アゲアゲ」という言葉には、気分を高める、場を明るくする、といった印象がある。DJ OZMAを連想するときにも、その響きは大きな位置を占める。ただ、ライブを楽しむ人の気持ちは一様ではない。最初から元気いっぱいで来る人だけではなく、疲れていて少し気分を変えたい人、久しぶりの外出を楽しみたい人など、一般にはさまざまな入口がある。
だから、気分を上げる音楽の魅力は、常に高いテンションでいなければいけないという要求として考えないほうがよい。見ているうちに自分なりの楽しさを見つけられること。知っている曲があればそこから入れること。大きく体を動かさなくても、三人を見られたことを喜べること。楽しむ方法が複数あるほうが、音楽の持つ明るさは多くの人へ届く。
今回の体験者は、かなり盛り上がっていたと述べている。その強さを保ちながらも、読者へ同じ反応を義務づける必要はない。公演の感想は、ほかの人がどう楽しむべきかという規範ではなく、自分がどう受け止めたかを伝えるものだ。熱いレビューを読んで興味を持った人が、次の機会に自分の距離感で参加できるなら、体験談はよい入口になる。
明るい音楽には、難しい説明を経ずに、人の関心を同じ方向へ向けられる可能性がある。深い知識より先に、面白そうだと感じられる。その入口の広さは、表現が浅いという意味ではない。短い時間で多くの人に届くものを作るには、分かりやすさと印象の強さが必要になる。見た人の記憶に名前が残り、また見たいと思えるなら、それは表現が持つ大切な力だ。
DJ OZMAの今回の出演を、楽しかったという言葉で語れることは、とても率直でよい。音楽の感想に、いつも複雑な理由が必要なわけではない。そのうえで、なぜ楽しかったのかを少しずつ考えてみると、三人の組み合わせ、記憶にある曲、以前からのファン、異なる会場といった要素が見えてくる。アゲアゲという大きな印象の中に、たくさんの具体的な入口があるのである。
19 2006年のデビューから、2026年にまた会えること
公式プロフィールに記された2006年3月22日のメジャーデビューから、2026年は二十年に当たる。これは、今回の出演が公式に二十周年記念公演として企画されたと断定するものではない。年を数えたときに見えてくる、作品と聴き手の間の時間である。デビュー当時を覚えている人にとっても、後から作品を知った人にとっても、長い時間を経て現地で見られることには、それぞれの意味がある。[6]
二十年という長さを考えるとき、誰もが同じ年齢や生活段階で出会ったわけではないことを忘れたくない。当時すでにライブに通っていた人もいれば、テレビや家族の聴く音楽を通して知った人もいるかもしれない。最初の出会いが最近の人には、二十年分の歴史が後から学べる背景として存在する。経歴の長さは、全員に同じ懐かしさを要求するものではなく、さまざまな時点から入れる層の厚さである。
時間が経ってからアーティストを見る楽しさには、自分自身の変化に気付く面もある。昔はよく分からなかった役割に今は関心が向く。歌だけを知っていたところから、ダンスやチーム全体へ目が広がる。反対に、知識が増えた今だからこそ、理屈を離れて楽しめる場合もある。作品の意味は、発売された瞬間に一度だけ決まるものではない。聞く人が変われば、同じ作品にも違う受け取り方が生まれる。
今回の三会場への来場体験は、その長い時間の中にある、2026年の具体的な記録になる。過去の映像を見ることは過去を知る手段だが、今の公演へ行くことは、自分自身の新しい記憶を作る行為だ。どれほど有名な作品でも、その人にとって初めて現地で見る機会なら、新しい出来事になる。古い曲と新しい体験は、矛盾せずに同居できる。
長く名前が残ることの価値は、いつでも同じように評価され続けることだけではない。時期によって距離が変わっても、また関心が戻る場所があることにも意味がある。DJ OZMAの名前を見て、もう一度会いに行きたいと思う。その気持ちが、江戸川、高輪、氣志團万博という具体的な行動になった。年表の数字を、個人の生きた時間へ変えるのは、そうした一人ずつの参加なのだろう。
20 最初のアルバムから、代表曲の周囲を歩く
ライブをきっかけに、代表曲以外も確かめたくなったとき、アルバムは分かりやすい入口になる。公式商品ページによると、『I LOVE PARTY PEOPLE』は2006年11月15日発売。収録曲には「HAPPY SONG」「アゲ♂アゲ♂EVERY☆騎士」「純情~スンジョン~」「One Night」「Together」などが並ぶ。高輪の公演報道で見かける曲名と、初期の作品集が結びついていることが分かる。[8]
ここで面白いのは、ライブの記憶からアルバムへ戻ると、一曲の位置づけが変わることだ。ステージで印象に残った曲は、その日の流れの一部として覚えている。アルバムでは、作品集の中の前後関係がある。同じ曲を別のまとまりの中へ置き直すことで、自分がどこに引かれていたのかを考えやすくなる。曲順の意味を作者に代わって断定する必要はなく、聴き手として違いを楽しめばよい。
アルバムという単位には、知らない曲に出会うための余白もある。代表曲だけを繰り返していると、自分がすでに知っている印象の中でアーティストを捉えやすい。作品集をたどると、名前だけでは予想していなかった曲へ関心が向くこともあるだろう。すべてを一度に好きになる必要はない。気になった一曲を見つけ、その曲の周囲へ少しずつ進めば、楽しみ方は自然に広がる。
今回の体験者が三人の名前を挙げたことを踏まえるなら、音源を聞くときにも、人の存在を意識する視点が加わる。曲名だけでなく、声や参加者に関心を持つ。作品のクレジットを確認しながら、自分が好きな部分を探す。公演で人を見た経験が、後から作品を聞く姿勢に影響する。ライブと音源は、片方がもう片方の代わりになるのではなく、互いの入口になるのである。
『I LOVE PARTY PEOPLE』というタイトルそのものにも、人が集まることを思わせる響きがある。これは歌詞の解説や制作意図の断定ではなく、タイトルを読む側の受け止め方だ。今回の、かつてのファンが集まっていたという記憶と重ねると、作品を好きな人の存在まで含めて音楽を楽しむ視点が生まれる。アルバムを確かめる時間も、現地で感じた楽しさの続きとして持つことができる。
21 二作目を知ると、一つの印象だけでは収まらなくなる
続く『I LOVE PARTY PEOPLE2』は、公式商品ページで2007年12月5日発売と確認できる。「疾風迅雷~命BOM-BA-YE~」「TOKYO BOOGiE BACK」「For You」「Lie-Lie-Lie」「白い童話」などが収録されている。代表曲を入り口にDJ OZMAへ関心を持った人にとって、こうした作品名を知ることは、次にどこへ耳を向けるかを考える手掛かりになる。[9]
作品を二枚並べてみると、一つの代表曲だけで抱いていた印象には、まだ余白があると気付く。曲名が増えることは、単に覚える情報が増えることではない。どの作品を気に入るか、どの順番で出会うかという、聴き手自身の選択肢が増えることだ。ライブで三人を見た後なら、その関心が作品へ向かう速度も変わるだろう。人への親しさが、新しい曲を聞く動機になる。
曲のタイトルから、明るい場面や夜の時間、誰かへの呼びかけなどを連想することはできる。ただし、タイトルだけで曲調や歌詞の内容を決めつける必要はない。むしろ、予想しながら実際の作品に触れ、自分の印象を確かめるところに楽しみがある。記事がすべての感想を先回りするより、読者が自分で聞くための道を示すほうが、作品との出会いは豊かになる。
二作目へ進むとき、最初のアルバムと優劣をつけることを急がなくてもよい。時期の異なる作品は、それぞれ別のまとまりとして存在している。ある日は一曲を聞きたいと思い、別の日には別の曲へ戻る。好みが固定されていなくても、そのたびに違う入口が見つかればよい。長いあいだ音楽を楽しむことは、一度決めた順位を守ることより、自分の中の関心が動くことを受け入れる行為に近い。
今回のコラムに作品の話を加える理由は、現地で感じた熱気を、会場の外でも続けられるからだ。出演が終わった後にも、作品は聞き直せる。三人を見られた喜びが、別の曲を知るきっかけになる。そこから次の出演情報への関心が生まれるかもしれない。ライブの一日は、その日だけで完結するようでいて、後の聴き方を変えることがある。その広がりを楽しみたい。
22 初期のライブ映像は、今の体験へ別の角度をくれる
公式に案内される映像作品『LUV-XURY』には、2006年12月20日に国立代々木競技場第一体育館で行われた初の全国ツアーの最終公演が収められている。2026年3月25日発売のBlu-ray商品としても紹介されている。ここでは、その映像の内容を視聴したかのように細かく評するのではなく、過去の公演に触れるための公式な入口があることを押さえたい。[10]
過去のライブ映像を見ることには、二つの楽しみ方がある。一つは、その時期の表現を知ること。もう一つは、今自分が体験した公演との距離を考えることだ。映像に残された舞台と、自分が現地で見た舞台は、条件も目的も違う。単純に同じ尺度で比べるより、どこに関心が向くかを確かめるとよい。三人の存在を意識するようになった人なら、以前とは違う人物へ目が向く可能性もある。
記録映像には、編集された視点がある。カメラが近づくところ、全体を映すところ、誰に注意を向けるかという選択が含まれる。一方、現地では自分で視線を選ぶ。舞台全体を見ていてもよいし、特定の人に注目していてもよい。この違いを意識すると、映像と現地の体験を、それぞれ別の楽しみとして受け取れる。どちらか一方だけが完全な見方なのではない。
今回、OZMA、PANCHO、KINGがそろっていたという感想は、自分で見た人の視線から生まれている。公式映像を確認する時間には、その視線を持ち込むことができる。人がどのように同じ作品へ関わっているか。歌と動きは、画面の中でどう見えるか。過去の映像をただ懐かしむだけでなく、自分が今持っている関心で見直す。そうすることで、作品の受け取り方は更新される。
映像作品を知ることは、現場に行けなかった時期を埋める方法にもなる。ただ、すべてを追いつかなければ現在の公演を楽しめないということではない。見たくなったときに見られる資料がある。その安心があれば十分だ。DJ OZMAにまた会えたという喜びから、過去へ目を向けることも、今の感想を大切にして次を待つことも、どちらも自然な楽しみ方なのである。
23 アジアへ広がる背景を知ると、音楽の地図が広がる
DJ OZMAの公式紹介には、台湾や韓国などアジアの音楽との関わりが記されている。また映像作品『六本木ツンデレラ』の商品紹介では、台湾、韓国、上海、江ノ島でのライブイベントや、本人のインタビューを中心とする構成が説明されている。今回の江戸川、高輪、氣志團万博という三つの場所を考えるときにも、アーティストが複数の地域や環境に関わってきた背景を知ることは、見方を広げてくれる。[5][11]
ここから考えられるのは、音楽の魅力が、一つの場所だけに閉じていないということだ。ある地域の表現へ関心を持ち、別の場所の人へ届ける。その間には、言葉や見せ方、作品の受け止められ方の違いがある。具体的な制作過程を資料なしに説明することはできないが、複数の土地と関わる活動の紹介を読むだけでも、代表曲の印象の背後に広い関心があることが見えてくる。
ファンの側も、好きなアーティストをきっかけに、知らなかった音楽へ関心を向けることができる。誰に影響を受けたのか、どのような作品を紹介しているのか。公式の説明やクレジットをたどれば、一つの名前から別の表現へ道が続く。最初から詳しい知識を持つ必要はない。気になったことを一つずつ確かめるだけでも、音楽を楽しむ範囲は少しずつ広がっていく。
今回の来場体験は、そうした広がりを知ったうえでも、個人の具体的な場所から始まっている。江戸川で見た。高輪で見た。氣志團万博で見た。音楽の背景がどれほど広くても、聴き手にとっての入口は、目の前の一回でよい。そこから作品を調べ、別の地域での活動を知ると、現地で見た人の印象に、新しい奥行きが加わる。大きな歴史と個人の経験は、このように接続できる。
アーティストの活動を土地の名前とともに読むと、単なる経歴の羅列だった情報が、出会いの記録として見えてくる。どこで誰に届いたのかを想像する入口になるからだ。ただし、その想像と確認された出来事は区別しておきたい。資料が教えてくれる場所を足場にしながら、自分が見た場所の記憶を大切にする。その往復が、音楽を一回きりの消費で終わらせない楽しみにつながる。
24 曲順を覚える楽しさと、全体を受け取る楽しさ
ライブの後でセットリストを振り返ることは、音楽を楽しむ一つの方法だ。どの曲がどこに置かれたかを確かめると、公演の流れを思い出しやすくなる。一方で、すべての曲順を記憶していなくても、公演が心に残ることはある。今回の依頼者が最初に挙げたのは、三つの場所、盛り上がり、昔からのファン、そして三人の名前だった。その記憶の形も、十分に価値がある。
公演の記憶は、人によって重点が違う。音楽の構成を細かく覚える人もいれば、出演者の存在や全体の印象が強く残る人もいる。どちらが正しいファンの見方ということはない。自分が何を持ち帰ったかを、そのまま言葉にしてよい。曲順が不確かだから感想を書けない、と考える必要はないし、印象が強いからといって曲順を想像で補う必要もない。
今回の高輪の公演には、報道によって確認できる演奏曲の情報がある。それを背景として参照することはできるが、三公演すべての記憶を一つのセットリストへまとめてしまうと、場所ごとの体験が失われる。江戸川の公演は江戸川として、高輪は高輪として、氣志團万博は氣志團万博として読む。そのうえで、共通して心に残った人物や楽しさを語るほうが、体験の輪郭は保たれる。[7]
全体の印象を残す文章には、読者が自分の関心を重ねられる余白がある。三人がそろうことに引かれる人は、その組み合わせへ目を向ける。以前からのファンが集まったことに心が動く人は、自分もまた見に行けるかもしれないと感じる。代表曲に親しみのある人は、作品を聞き直すきっかけを得る。一つのレビューが、同じ反応だけを読者へ求める必要はない。
ライブを記録することは、すべてを漏れなく再現することとは違う。残っているものを正確に扱い、その意味を考えることで、後から読み返せる文章になる。今回の体験の核は明確だ。実際に見に行き、強い盛り上がりを感じ、昔からのファンの存在に気付き、OZMA、PANCHO、KINGに会えた。その核を守れば、細部を誇張しなくても、長く読めるコラムを作ることができる。
25 地域の祭り、駅前、フェス。それぞれに違う入口がある
三つの公演を横に並べると、アーティストと観客が出会う方法の違いが見えてくる。江戸川納涼祭には地域の催しという入口がある。高輪のライブには駅前の都市空間という入口がある。氣志團万博には複数のアーティストが集まる音楽フェスという入口がある。どこでもDJ OZMAという名前は同じでも、見る側がその場所へ向かう理由は一つではない。この違いを意識すると、三回見たことを単なる回数以上の経験として考えられる。
地域の祭りでは、音楽がその日のさまざまな楽しみと並ぶ。駅前のライブでは、日常の移動に近い場所に音楽の時間が生まれる。フェスでは、別の出演者を目的に来た人の関心とも交わる。これは各会場で誰が何をしたかという目撃談ではなく、開催形態から読み取れる違いだ。それぞれに開かれ方があり、アーティストの魅力が届く経路も変わる。
同じ人が三つの場所へ行くと、場所によって自分の見方が変わる可能性にも気付ける。あるときは全体を楽しみ、別のときは三人の存在を強く意識するかもしれない。公演そのものの違いに加えて、自分の経験が増えていることも影響する。前に見たことが、次を見るときの視線を作る。繰り返し現地へ行く楽しみには、アーティストを知ることと、自分の感じ方を知ることの両方がある。
三公演を一つの物語へまとめるなら、制作側の意図を想像でつなぐより、体験者の移動を中心に据えるほうが自然だ。私は江戸川へ行き、高輪へ行き、氣志團万博へ行った。そのたびにDJ OZMAを見た。場所の名前が変わる一方で、見たい人の名前が続いている。この簡潔な連なりには、ファンが自分で作る旅のような面白さがある。
音楽をきっかけに訪れた場所は、その後、自分だけの意味を持つようになる。誰かには通過するだけの駅でも、自分にはライブを見た駅になる。公園や展示場も、地図上の施設名から、経験のある場所へ変わる。三つの会場を振り返ることは、DJ OZMAの活動を追うと同時に、自分の一年の中に音楽がどこで存在したかを確かめることでもある。その地図は、ほかの誰かと同じでなくてよい。
26 ノンアルのライブから考える、楽しさの選択肢
高輪のイベント名には「ノンアル」が入っている。サントリーのノンアルコール飲料に関わる企画として行われたことは、公演報道でも確認できる。ここで注目したいのは、音楽の楽しさと飲み物の選択を、一つの決まった形に結びつけなくてもよいという点だ。ライブの主役は、出演者の表現と、それを受け取る時間にある。どのような気分でその場に関わるかには、幅があってよい。[3]
パーティーという言葉には、人によって違うイメージがある。華やかさ、夜、集まり、音楽、踊ること。DJ OZMAの作品や名前から連想する楽しさも、そのすべてが一つに固定されているわけではない。今回、高輪でノンアルのライブとして出会えたことを考えると、楽しい場への入口は、時代や企画に合わせてさまざまに作れる。音楽の持つ開放感を、より身近な形で受け取る機会にもなる。
この点を、特定の商品が気分を変えたとか、全員が同じ飲料を手にしていたという話へ広げる必要はない。そうした体験は提供されていないし、商品の効果を語る記事でもない。重要なのは、公演の楽しさを自分の選択で受け取れることだ。音楽を聞きたい、三人を見たい、好きだった曲にまた触れたい。その気持ちがあれば、楽しみへ入る理由は十分にある。
大人になってからのライブ参加には、それぞれの事情がある。翌日の予定、体力、移動、同行者との過ごし方。一般に、若い頃と同じ方法だけが唯一の楽しみ方ではない。こうした事情を抱えながらも、無理のない形で参加できる入口があると、長く音楽と付き合いやすくなる。昔からのファンが再び集まるという今回の話にも、そのような柔らかい参加のあり方を重ねて考えたくなる。
高輪駅前という場所と、ノンアルのライブという企画が組み合わさったことで、DJ OZMAを知る人にも、新しく出会う人にも、ひとつの具体的な機会が生まれた。アーティストの魅力は、決まった会場や決まった参加の仕方だけで届くものではない。表現の核があり、その周りにさまざまな入口を作れる。その柔軟さは、長い時間を経てまた会える音楽にとって、大切な力になる。
27 同じ時間を共有することは、映像を見ることと何が違うのか
映像や音源が身近になっても、現地へ見に行くことを選ぶ人がいる。今回の依頼者も、三つの場所へ実際に足を運んだ。そこで得られたのは、出演を知っているという情報だけではない。三人がそこにいて、会場が盛り上がっていると感じた、自分自身の体験だった。ライブの価値を考えるとき、この「その時間にいた」という感覚は大きい。
現地では、公演の時間は自分一人の都合で止めたり戻したりできない。見逃した一瞬があっても、流れは先へ進む。映像の便利さとは異なるこの性質が、集中を生むこともある。いま目の前で起きていることへ注意を向ける。どこを見るかを自分で選ぶ。あとから完全には取り戻せない一回として受け取る。その緊張と楽しさが、現地の記憶に独特の輪郭を与える。
また、自分以外の人も同じ表現を受け取っていることが、体験の一部になる。今回の「かつてのファンも集まっていた」という感想は、その点をよく表している。一人で作品を再生するときには見えにくい、ほかの聴き手の存在が現場では感じられる。どんな思いで来たかまでは分からなくても、同じ人物を見るために人が集まっていること自体が、音楽との関係を豊かにする。
ただ、現地に行ける人だけが本当のファンだという結論にはならない。移動できる条件や時間は人によって違う。映像や音源を通して大切にしている人にも、その人の経験がある。現地の魅力を語るときには、その価値を強く述べながら、ほかの楽しみ方を狭めないでいたい。体験談は、来られなかった人を遠ざけるためではなく、そこで何が心に残ったかを届けるために書ける。
今回の来場者の言葉も、現地に行ったからこそ持てた感想として、そのまま受け止めればよい。盛り上がりの大きさ、以前からのファンの存在、三人がそろう喜び。読者はそれを通して、次に自分がどう関わりたいかを考えられる。映像を見直すかもしれないし、音源を聞くかもしれないし、出演情報を確かめるかもしれない。一人の現地体験が、別の人の音楽との関わりを動かすことがある。
28 初めて気になった人は、どこからDJ OZMAへ入ればよいか
この記事を読んで初めてDJ OZMAを見てみたいと思った人は、すべての経歴を覚えるところから始めなくてもよい。まずは、SMAの公式プロフィールでアーティストの紹介を読み、掲載されている公式映像への案内を確かめる。曲名と人物の名前が結びつくだけでも、次に何を聞いてみたいかが見えやすくなる。情報の量を増やすより、実際の作品へ触れる入口を一つ持つことが大切だ。[6]
代表曲から入るなら、「アゲ♂アゲ♂EVERY☆騎士」を起点にできる。そこから興味が続けば、最初のアルバムや二作目の公式曲目を見て、気になる作品を探す。曲を聞く順番は自由でよい。発売順にたどる方法もあれば、タイトルが気になったものから入る方法もある。最初の一曲で好みが決まらなくても、別の作品で関心が深まることはある。正解の順番を決める必要はない。
映像を見るときには、三人の名前を意識してみると、今回の体験談とのつながりが分かりやすい。OZMAだけでなく、PANCHOとKINGへも目を向ける。誰がどのように作品へ関わっているかを、公式の紹介やクレジットと照らして知っていく。出演者の存在を覚えると、名前だけの公演告知にも具体的なイメージが加わる。見たいという気持ちが、少しずつ自分のものになっていく。
過去の有名な話題を先に調べる方法もあるが、それだけで人物像を決めてしまうのは惜しい。ニュースとして大きく扱われた出来事と、音楽やステージを長く楽しんできた人の関心は、完全には重ならないことがある。今回の依頼者が語ったのは、実際に見た三人と、その場の盛り上がりだった。新しく入る人も、まず作品と表現に触れ、自分の感想を持つことから始めてよい。
次の出演を見たいと思った場合には、その時点の公式案内を確かめればよい。このコラムに登場する江戸川、高輪、氣志團万博の体験は、2026年の特定の公演を振り返るものだ。過去の会場や参加条件を、そのまま次回の案内として読む必要はない。作品を知る楽しみと、現在の出演情報を確認することを分けておけば、自分に合った機会を落ち着いて選べる。
29 久しぶりのファンには、戻る理由を説明しなくてよい場所がある
以前はよく聞いていた。名前を見ると気になる。でも、最近の活動までは追えていない。そんな距離にいる人にとって、再びライブへ行くことには、少しのためらいがあるかもしれない。今のファンについていけるだろうか、知らない曲が多いだろうか、と考えることもあるだろう。そうした人へ今回の体験談が届けられるのは、かつてのファンも集まっていたと感じられた、という温かい記録だ。
応援を再開するために、空白の期間を埋める試験は必要ない。気になった公演へ行く、好きだった曲を聞き直す、公式プロフィールを読んで今の情報を確かめる。それぞれが十分な入口になる。以前と同じ熱量や方法を再現できなくてもよい。今の自分が楽しめる距離を見つければ、その時点から新しい関係が始まる。再会は、過去の自分へ戻る義務ではない。
今回の依頼者が三会場へ足を運んだことも、誰もが同じように通うべきだという話ではない。一回を大切にする人もいれば、次の機会まで音源を楽しむ人もいる。ファンの行動は、生活の条件とともに選べばよい。長く続く楽しみには、無理のない余白が必要になる。見たい人がいるという気持ちを、自分の生活の中で実現できる形へ整えていくことが大切だ。
昔からのファンであることには、記憶を持っているというよさがある。以前にどんなところを好きだったか、どの曲をよく聞いたか。その記憶は、新しく知った人へ話すきっかけにもなる。ただ、記憶の長さを優位さに変える必要はない。新しい人の感想から、長く見ていた人が別の魅力に気付くこともある。異なる時間から来た人が、同じ表現をそれぞれの言葉で語れる場所があると、音楽の楽しさは広がる。
「かつてのファンも集まっていた」という一文を、私はそうした開かれた再会の象徴として読みたい。実際にそこにいた人たちの事情は分からない。それでも、その存在を見た来場者がうれしい記憶として語っていることには意味がある。好きだったものへまた向かえる。長い時間が経っても、会いたいと思える人たちがいる。そのこと自体が、音楽を好きでいる人生の豊かさなのだと思う。
30 ひとつのステージから、フェスの一日が広がる
DJ OZMAを目当てに氣志團万博へ行った人にも、その日にはほかの出演者がいる。フェスの面白さは、目的を持って行くことと、予定していなかった関心に出会うことが、同じ一日の中で起こり得るところだ。公式出演者一覧に複数の名前が並ぶのは、それぞれ違う聴き手が同じ会場へ集まる可能性を示している。DJ OZMAの出演を、その大きな一日の中へ置いて考えると、単独公演とは違う魅力が見えてくる。[4]
目当てのアーティストを待つ時間にも、音楽への入口はある。知らなかった名前を覚える。別のファンが大切にしている表現を知る。自分にはなかった聴き方に触れる。こうしたことは、必ずしも好みを変えるほどの大事件でなくてよい。ひとつ気になる名前が増えるだけでも、フェスへ行った意味は広がる。好きな人を見に行くという行動が、ほかの音楽へも関心を向けるきっかけになる。
その逆に、別の出演者を目的に来た人がDJ OZMAを知る可能性もある。今回、実際にどれほど新しいファンが増えたかは分からない。けれども、異なる目当てを持つ人たちが同じイベントへ来るという構造には、出会いを生む力がある。代表曲を知っている人が生のステージへ初めて触れることも、名前を初めて聞いた人が三人の存在に関心を持つことも、フェスならではの自然な経路だ。
こうした場では、古くからのファンが楽しんでいることにも意味がある。何を大切にしているのか、誰の登場を喜んでいるのか。その熱意は、周囲の人が表現へ注意を向けるきっかけになる場合がある。ただし、楽しみ方を周囲へ強制する必要はない。自分の好きなものを大切にしながら、ほかの人の見方も尊重する。その余白があると、フェスの多様な客席は、単なる寄せ集めではなく、関心が行き来する場になる。
DJ OZMAが出演したことを喜ぶ今回の体験も、フェス全体の中にある一人の具体的な記憶として残る。会場の全公演を代表する評価ではなく、自分にとって大切だった一組について語る。それでよい。フェスの記録は、たくさんの人がそれぞれの目当てや発見を語ることで、多面的になる。OZMA、PANCHO、KINGを見られたという言葉は、その大きな記録の中で、ほかの誰にも代わりに書けない位置を持っている。
31 拍手の先にある、表現を受け取る姿勢
ライブを好きになると、目の前で楽しい時間を作っている人たちへの関心が増えていく。今回、OZMAだけでなくPANCHO、KINGの名前まで挙げられていることは、その関心が一人の有名な存在にとどまっていないことを示している。誰かの名前を覚え、その人がいたことを喜ぶ。観客が表現を受け取るときの、具体的で温かい姿勢である。
多くのステージは、出演者だけでなく、さまざまな役割の人によって支えられる。今回の各公演のスタッフ構成を調べたわけではないので、特定の人の仕事ぶりを描写することはできない。それでも、会場があり、時間が設けられ、音楽を見られる機会が作られていることには、準備がある。見る側がその場を楽しめることの背景を考えると、公演に対する受け止め方は少し丁寧になる。
観客としてできることも、特別に難しいことばかりではない。自分が見たい人を見ると同時に、ほかの人にも同じ時間を楽しむ余地があることを意識する。好きな表現へ集中しながら、会場の案内に沿って過ごす。近くにいる人の楽しみ方が自分と違っていても、それをすぐに熱意の差と決めない。そうした小さな配慮は、昔からのファンにも初めての人にも、入りやすい客席を作る。
盛り上がりを伝える記事にも、似た姿勢が必要になる。強い感動を言葉にしながら、見ていない細部を作らない。ほかの来場者の心の中を代弁しすぎない。目撃したことと、公表資料から知ったことを、読者が区別できるようにする。誠実な記録は、熱量を弱くするものではない。どこから来た言葉なのかが分かるからこそ、その言葉に安心して気持ちを重ねられる。
今回の体験者が残した言葉は、すでに十分に強い。実際に行った。盛り上がっていた。昔からのファンもいた。三人がそろっていた。この短い核に丁寧に向き合うことが、出演者への敬意にも、来場者の経験への敬意にもなる。もっと派手な話を足すより、その人が大切にしたことを取り落とさずに書く。ライブのよさを長く残すには、その姿勢が役立つのだと思う。
32 ライブが終わった後にも、楽しみは続いていく
公演の時間には終わりがあるが、その経験との付き合いは終演と同時に終わるわけではない。気になった作品を聞き直す。公式の紹介を読む。見に行った人と感想を話す。別の会場で見た記憶と照らし合わせる。今回のように江戸川、高輪、氣志團万博という複数の体験があれば、一つの公演を思い出すことが、別の日の記憶も呼び起こす。ライブの楽しみは、会場を出た後にも形を変えて続く。
そのとき、最初に残った感想は大切にしたい。時間が経つと、細かな順序や言葉は曖昧になることがある。一方で、誰を見られてうれしかったか、どんな印象が強かったかは、比較的はっきりした核として残る。今回の依頼者にとっては、三人がいたことと、かなりの盛り上がりだったことが、その核だった。後から詳しい資料を読んでも、その個人的な感想を別の誰かの評価へ置き換える必要はない。
感想を共有する楽しさも、結論をそろえるところにだけあるわけではない。同じ公演を見た人が、違う人物や曲に注目していたと知ると、自分の見ていた範囲が分かることがある。次は別のところも見てみたいと思うかもしれない。逆に、同じ三人の登場を喜んでいたと分かれば、その一致がうれしいこともある。違いも共通点も、体験を豊かにする材料になる。
文章として残すことには、さらに時間をまたぐ利点がある。後で読み返したとき、その日の自分が何を大切にしていたかを確かめられるからだ。情報だけなら、公式の記録を参照すれば分かることも多い。けれども、自分が見に行ったこと、三人に会えたこと、昔からのファンの姿が印象に残ったことは、自分の言葉で残しておく意味がある。個人の感想は、公的な記録とは違う役割を持っている。
本稿の画像も、その記憶を開くためのイメージとして添えた。実際の会場写真ではなく、三人の表現と集まる人々の楽しさを象徴するイラストである。写真が持つ記録性とは役割が違うが、文章を読み始めるきっかけにはなれる。事実を示す部分は本文と出典で確かめられるようにし、イメージはイメージとして楽しむ。そうした形で、熱気と正確さを同じ記事の中に置いておきたい。
33 次に期待するなら、また会える機会そのものを
江戸川、高輪、氣志團万博でDJ OZMAを見た経験を振り返ると、自然に次の機会へ関心が向く。今回の体験が楽しかったから、また見たい。三人がそろっていたことがうれしかったから、また会える日を楽しみにしたい。その気持ちは、公演の後に生まれるごく素直な続きを持っている。期待は、まだ決まっていないことを事実のように語らなくても、十分に表現できる。
今後の活動を想像するとき、ファンにはさまざまな希望があるだろう。自分の行きやすい場所で見たい、作品をもっと知りたい、以前からのファンとまた同じ時間を過ごしたい。どれも、見る側の願いとして持つことができる。ただし、願いと予定は別に扱えばよい。開催日や会場、出演者の組み合わせは、その都度の正式な案内で確かめる。その線を保つことで、期待を安心して楽しめる。
一回の出演から、永続的な活動方針までを読み取る必要はない。今回、実際に見られたことには、それだけで価値がある。将来の保証がなくても、今の体験を喜んでよい。むしろ、見られた一回を大切にする姿勢は、アーティストへ過剰な約束を求めずに応援することにもつながる。次を待ちながら、今回の記憶を十分に味わう。その二つは両立する。
次の機会に向けてできることとしては、公式の情報を確かめ、作品へ触れ、自分が楽しめる参加の仕方を考えることがある。すべてを追い続けなくても、関心を保つ方法はある。気になったときにプロフィールや作品一覧へ戻れる。出演の案内があれば、自分の予定と相談できる。好きなものとの関係を、日常の中で続けられる大きさに整えることは、長く楽しむための工夫になる。
今回の体験者の言葉が教えてくれるのは、会いたい人がいて、実際に会いに行き、そこで楽しい時間を受け取れたということだ。その積み重ねは、大きな活動宣言がなくても、自分の中で確かな意味を持つ。DJ OZMA、PANCHO、KINGの名前を思い出したとき、次も見たいと思える。その気持ちを急いで何かの結論へ変えず、次の出会いへ向かう楽しみとして持っておきたい。
34 江戸川、高輪、氣志團万博。三人がいた、その喜びを残す
ここまで、三つの会場、三人の存在、代表曲と作品、昔からのファンが集まる意味を考えてきた。振り返って最後に残るのは、やはり最初の言葉である。私は実際に見に行った。かなりの盛り上がりだった。かつてのファンも集まっていた。OZMA、PANCHO、KINGと、みんな出演していた。長い文章で背景を広げても、この核の率直さは変わらない。
江戸川の祭りで会えたことには、地域の催しの中で音楽に触れる身近さがある。高輪駅前で会えたことには、日常の場所にライブの記憶が加わる面白さがある。氣志團万博で会えたことには、多様な出演者と観客が集まる場で、好きな三人を見る喜びがある。同じアーティストの公演でも、自分が訪れた場所の違いが、体験を単調にしない。それぞれの日が別の記憶として残りながら、一つの続きにもなっている。
三人の名前を並べると、その続きはさらに具体的になる。DJ OZMAという大きな名前の向こう側に、OZMA、PANCHO、KINGという、会いたかった存在がいる。歌や動き、作品を知ることを通して、一人ひとりへの親しさが育つ。そして、三人が同じ場にいることがうれしくなる。音楽を好きになることは、曲を覚えるだけでなく、表現を作る人たちの存在を大切にすることでもある。
かつてのファンが集まっていたという記憶にも、長く残る温かさがある。昔から知っているものへ、今の自分としてまた向かえる。応援の形や生活が変わっていても、好きだった名前を見つければ、もう一度関心を持てる。人によって間隔も深さも違うが、また会いたいと思う気持ちは、現在の行動へつながる。そのことを目に見える形で感じられるのが、再会のライブのよさなのだろう。
この体験を、誰にとっても同じ意味を持つ大事件として語る必要はない。来場者にとって大切だったことを、具体的な名前と場所を添えて残せばよい。記事を読んだ人が、自分にも好きだった曲があると思い出すかもしれない。三人のことをもっと知りたいと感じるかもしれない。以前からのファンなら、同じ名前に親しさを覚えるかもしれない。体験の言葉は、そのように別の人の記憶や関心へ届いていく。
DJ OZMAが氣志團万博に出演した。そのニュースの先に、江戸川から高輪、そして幕張へと足を運んだ一人の体験がある。そこには、ステージの三人だけでなく、集まったファンの存在もある。楽しかったという感想は、出演者と観客が同じ時間に関わった結果として生まれている。曲、人物、場所、記憶。そのいくつもの要素が重なったから、見に行った人の中に、強い印象が残ったのだと思う。
次にどこで会えるかは、これからの案内を楽しみに待ちたい。今は、見られた三つの場所と、そこにいた三人を、はっきりした名前で残しておく。OZMA、PANCHO、KING。みんなが出演していた。そして、会場はかなり盛り上がっていた。好きな人たちにまた会えた喜びは、それだけで十分に伝える価値がある。今回の江戸川、高輪、氣志團万博の体験を、そんな一人の来場者の大切な記録として届けたい。
参照資料
公式プロフィール・公演情報を優先し、高輪と江戸川の公演の補足には出典を明記した報道を使用しました。来場体験は依頼者の申告によるものです。確認日は2026年11月7日です。
- 椎名慶治公式|「2026江戸川納涼祭」出演案内
公式/2026年7月4日。催しの名称、開催日、会場を確認。
- 号外NET 江戸川区|江戸川納涼祭のDJ OZMA出演案内
地域報道/2026年7月17日。DJ OZMAの7月19日出演を確認。
- ENCOUNT|高輪ゲートウェイ駅前でのライブ報道
公演報道/2026年7月31日。催し、会場、出演、氣志團万博への言及を確認。
- 氣志團万博2026|公式出演者一覧
公式。DJ OZMAの掲載を確認。
- UNIVERSAL MUSIC JAPAN|DJ OZMA BIOGRAPHY
公式。DJ OZMA、PANCHO、KINGの紹介と活動背景を参照。演出的な設定は事実として転記していません。
- Sony Music Artists|DJ OZMA
公式。デビュー日、活動紹介、公式映像への案内を確認。
- マイナビニュース|高輪のライブと氣志團万博出演発表
公演報道/2026年8月1日。高輪での披露曲を確認。ほかの公演のセットリストには流用していません。
- UNIVERSAL MUSIC JAPAN|I LOVE PARTY PEOPLE
公式商品情報。2006年11月15日の発売日と収録曲を確認。
- UNIVERSAL MUSIC JAPAN|I LOVE PARTY PEOPLE2
公式商品情報。2007年12月5日の発売日と収録曲を確認。
- UNIVERSAL MUSIC JAPAN|LUV-XURY(Blu-ray)
公式商品情報。収録公演と2026年3月25日のBlu-ray発売を確認。
- UNIVERSAL MUSIC JAPAN|六本木ツンデレラ(Blu-ray)
公式商品情報。記録映像集の対象地域と構成を参照。
- イープラス|氣志團万博2026の公演案内
公式チケット販売案内。11月7日のDJ OZMA出演枠と幕張メッセの会場を確認。
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