画像は本人の特徴を参考に制作した非公式のAIイラストです。実際の公演写真ではありません。
Mrs. GREEN APPLEを好きになる入口は、一つに決まらない。映画の最後に流れた歌、朝の番組で耳にした曲、ライブ映像の中で気になった三人、ギターを弾いてみたくなった一節。そこから作品をたどると、同じ曲が別の歌い手へ渡り、異なる編成で録音され、舞台の物語の中へ移っていく。ミセスの変化を楽しむには、新しい曲を順番に覚えるだけでなく、曲がどのような場所で、どのような形を取って届くかに目を向けたい。
本稿では『Attitude』『Unity』『ANTENNA』『10』を中心に、セルフカバー、オーケストラ版、制作映像、映画化されたライブまでを横断する。活動を区切るフェーズという言葉も、単に昔と今を分けるためではなく、作品の変化と継続を見つける手掛かりにしたい。公表された情報を足場にしながら、実際に聴くとき、見るときに何を比べられるかを考えるコラムである。
三人の現在から、フェーズを振り返る
二〇二六年十月二十七日現在、公式プロフィールに掲載されているメンバーは、大森元貴、若井滉斗、藤澤涼架の三人。担当はそれぞれボーカルとギター、ギター、キーボードと示されている。現在の編成を起点に過去の作品を聴くときは、録音や公演が行われた時期を意識したい。いま知っている三人の姿を、過去のすべての活動へそのまま当てはめると、その時代固有の仕事を見失ってしまう。
公式の案内では、二〇二二年三月十八日の活動再開から二〇二五年末までがフェーズ二、二〇二六年一月一日からがフェーズ三とされている。フェーズ一の完結と活動休止は二〇二〇年七月だった。この区切りは事実として押さえられるが、作品の感じ方まで境界線で二分する必要はない。休止前の曲が後年のライブに登場したり、新しい録音として届いたりすることで、複数の時期はつながり続けている。
フェーズの変化を、以前の表現を捨てた証拠として受け取るより、作品を使って何ができるかを問い直す節目として読むと面白い。同じ題名の曲が演奏の場を変えたとき、曲の輪郭と、その場の表現はどのように重なるだろうか。初期の作品を知っている人には違いを探す楽しみがあり、近年の作品から入った人には、今気になっている要素の過去を探す楽しみがある。
だから、すべてを発売順に覚えなくてもよい。「僕のこと」の別バージョンからフェーズを越えて移動することも、「Part of me」を収録作品と映像作品の両方から見ることもできる。年表は全員が同じ速度で進む道ではなく、曲の位置を確かめる地図として役立つ。三人の現在を知ることは、その地図の出発点を置くことであり、過去へ向かう道を閉じることではない。
大森元貴の制作を、歌の外側まで見る
大森元貴のレーベル公式プロフィールには、Mrs. GREEN APPLEでの作詞、作曲、編曲に加え、アートワークやミュージックビデオのアイデアへの関与が記されている。この事実を知ると、歌声を中心に受け取っていた作品を、言葉、音の構成、見た目が出会う仕事として見直せる。ただし、企画への関与と、すべての実制作を一人で行うことは同じではない。作品に載る個々のクレジットへ進む理由が、ここから生まれる。
曲が好きだという感覚は、歌詞だけから来るとは限らない。歌が始まるまでの時間、歌の周囲にある音、ジャケットを見たときの印象、映像を経てから聴き直したときの記憶も関係する。大森の制作領域を知ることは、それらをばらばらの付属物として扱わず、一つの作品の複数の入口として受け取る助けになる。音だけで楽しむ自由と、視覚へ広げる自由を両方持てる。
一方、作者の名前を知ったからといって、歌の中の語り手を本人と同一視する必要はない。映画へ渡される曲や、別の歌い手の声で届く曲があることを考えれば、作品は一人の私生活を直接説明する文章とは異なる。作者が作る言葉と、演奏者が声や音にする表現と、聴き手がそこへ重ねる経験。その間の距離を残すほうが、一曲の受け取り方は広がる。
この視点は、若井と藤澤の仕事へ注意を向ける際にも役立つ。作ることと演奏することを競わせるのではなく、書かれた曲がバンドの表現として届く過程を見たい。録音映像やライブ映像では、誰の名前を知っているかだけでなく、どの仕事に今まで耳を向けてこなかったかが問いになる。大森の制作を深く知ることが、他の二人や周囲の制作者の仕事へ進む入口にもなる。
『Attitude』に集まる、異なる場所へ届いた歌
二〇一九年の『Attitude』には、「インフェルノ」「僕のこと」「青と夏」「lovin’」などが収められている。公式作品情報を確認すると、それぞれテレビアニメ、高校サッカー選手権、映画、朝のテレビ番組という異なる接点を持つことが分かる。同じ一枚の中に、別々の場面で人々に出会った曲が集まっている。作品の広がりを考えるうえで、これは曲数とは別の豊かさだ。
「青と夏」を映画から知った人と、「僕のこと」をスポーツの場面で知った人では、曲を聴くときに思い出す風景が違うだろう。その違いをいったん持ったままアルバムへ入ると、自分の記憶と結び付いていない曲にも出会う。「Viking」「クダリ」「Soup」など、目当てではなかった曲へ進むことで、ミセスの印象が、最初に知った一曲だけでは説明できなくなっていく。
タイアップのある曲を、その用途だけで分類してしまわないことも大切だ。応援歌と知っていても、いつも励ましだけを受け取るとは限らない。映画主題歌でも、映画を見ていない日の生活に届くことがある。作品が最初に使われた場所は、受け取り方を指定する鍵ではなく、曲がどのような人へ開かれたかを示す情報になる。その情報と個人の体験は、重なってもずれてもよい。
『Attitude』を聴き直すなら、よく知る曲の印象を、そのままアルバム全体の説明に使わないでみたい。自分はどの曲で言葉へ耳が向き、どの曲で伴奏へ意識が移るのか。知らなかった曲が既知の曲の見方を変えることはあるか。こうした問いを持つと、一枚は代表曲をまとめた棚ではなく、最初の印象を少しずつ広げていく場所になる。
「僕のこと」の二つの録音が、時間をつなぐ
「僕のこと」は『Attitude』に収録され、後に「僕のこと(Orchestra ver.)」が二〇二三年一月九日に配信された。公式案内によれば、後者はカロリーメイトの受験生応援CMへ提供されたバージョンである。同じ題名の曲が、時期と使われる場面を変えて届く。この二つを比べることは、曲の寿命が最初の発売だけでは終わらないことを実感する入口になる。
ここでは、どちらの録音が優れているかを先に決める必要はない。オーケストラ版という表記から編成の違いへ関心を持ち、実際の音源で歌の周囲がどう聴こえるかを確かめたい。同じ旋律を追っていたはずなのに、耳が別の場所へ向くこともあるだろう。反対に、編成が変わっても自分に強く残る部分が同じなら、その共通点も大事な発見になる。
比較するときには、一度に全体の違いを言葉にしようとせず、歌い出しまで、歌が途切れる箇所、終わった後に残る印象など、確かめる範囲を小さくするとよい。専門的な編成分析ができなくても、自分の注意がどう移動したかは記述できる。聴き慣れた歌を改めて聴くことは、記憶が正しいかを試す作業ではなく、記憶の外にある音へ出会う機会だ。
また、受験やスポーツという接点を持つからといって、その曲に触れる資格が経験の有無で決まるわけではない。ある時期の自分には遠かった曲が、数年後には近く感じられることもある。二つの録音は、バンドの活動の時間だけでなく、聴く側の変化を見つける手掛かりにもなる。昔好きだった歌が、違う形で現在に届くことの面白さを味わいたい。
『Unity』の六曲を、活動再開の一言で閉じない
二〇二二年七月八日発売のミニアルバム『Unity』は、「ニュー・マイ・ノーマル」「ダンスホール」「ブルーアンビエンス(feat. asmi)」「君を知らない」「延々」「Part of me」の六曲を収録する。活動再開後の作品という位置付けは重要だが、その説明だけで六曲の性格を一つにまとめてしまうのは惜しい。再開という同じ時期の中にも、別の相手や別の場へ開かれる曲がある。
「ダンスホール」は朝の番組、「ブルーアンビエンス」は恋愛リアリティ番組、「延々」はゲームとの接点が公式に記されている。異なる場所へ向けた曲が一枚に集まる点では、『Attitude』と比較できる。ただし、同じ用途の曲が同じ表現になるとは限らない。大切なのは用途をジャンルの代わりにすることではなく、どの場面から作品へ人が入ってくるかを考えることだ。
六曲というまとまりには、一曲から全体へ進みやすい利点がある。「ダンスホール」を知っている人が、その勢いで残りを一度に覚える必要はない。「君を知らない」や「Part of me」へ関心が向いたとき、最初の入口とは違う理由でこの作品へ戻れるようになる。作品を知るとは、曲名を全部言えることだけでなく、自分にとって戻りたい場所が増えることでもある。
活動再開を扱う記事では、変化を大きく見せるために過去と現在を対立させがちだ。しかし『Unity』から『Attitude』へ戻ってもよいし、後の『Harmony』で「Part of me」に出会ってから『Unity』へ進んでもよい。公式の節目を理解したうえで、聴く道は自由に結べる。再開という出来事が作品を説明し尽くすのではなく、作品の多様さがその時期を具体的に見せてくれる。
「ブルーアンビエンス」で、バンドの外から来る声を聴く
『Unity』の「ブルーアンビエンス」には、題名にasmiのフィーチャリング表記がある。この表記は、一曲をバンドだけで閉じず、外から来る声との関係として聴く入口になる。誰が参加しているかを知ることと、その人がどんな人物かを詳しく知っていることは別でよい。まずは同じ曲の中で声がどのように受け取れるか、自分の耳から関係を探せる。
共演曲を楽しむ際、二人の声を競わせるより、声が切り替わる前後に注目してみたい。一つの声を聴いた後だからこそ、次の声の特徴が感じられることがある。声の違いをうまく形容できなくても、どこで曲の距離が変わったように感じるか、どこで一つの流れとして受け取るかを確かめられる。組み合わせの魅力は、単独の魅力を足すだけでは説明できない。
フィーチャリングは、ミセスの曲から別のアーティストへ進む道にもなる。asmiの名前をここで知った人が、その人の作品を聴き、再び「ブルーアンビエンス」へ戻れば、以前と違う情報を持って一曲に出会うことになる。逆にasmiからミセスへ入る人もいる。共演は既存のファンに向けた特別な出来事であると同時に、互いの音楽へ渡る公共の入口でもある。
この曲を『Unity』の他の五曲と比べると、外部の声があることによって何へ耳が向くかを考えられる。同じバンド名の下にある作品でも、一曲ごとに表現の関係者や届く場面は違う。その違いを知るほど、「ミセスらしさ」を一つの音や一つの人物像へ固定しなくて済む。外の声と出会っても何が自分にミセスとして届くのか、その問いを持つ楽しさがある。
「私は最強」が示す、提供曲とセルフカバーの往復
『ANTENNA』の公式作品情報では、「私は最強」が映画『ONE PIECE FILM RED』への提供曲のセルフカバーであると示されている。自分たちの作品として発表される曲と、外の作品へ渡された曲が再びバンド名義で届くこと。その違いを知ると、作者と歌い手、物語と録音の関係を考える具体的な入口ができる。曲が生まれた場所と、自分が最初に出会った場所は同じでなくてもよい。
セルフカバーを聴く面白さは、どちらが本来の姿かを決めることだけにはない。ある歌い手の声で覚えた曲を別の声で聴くと、同じ題名でも注意の向く場所が変わる。その変化を通して、今まで声と曲を一体として記憶していたことに気付くかもしれない。逆に、歌い手が変わっても強く残る部分があれば、そこから曲の構造へ関心が向く。
映画の中で役割を持つ歌を、アルバムの一曲として聴くときには、物語の記憶との距離も変わる。映像を思い出しながら聴く日も、目の前の音だけを受け取る日もあるだろう。作品の背景は、いつも同じ強さで意識しなければならない条件ではない。知っている背景を必要なときに開き、別のときには音へ集中するという往復ができる。
『ANTENNA』で「私は最強」を聴いたあと、『Unity』のフィーチャリング曲へ戻ると、外部との関わり方の違いも見えてくる。一つの録音で声を迎えることと、曲を別の作品へ渡してから自分たちで歌うことは、同じ共演ではない。違いを丁寧に分けると、ミセスの表現がバンドの内外をどう行き来しているかを、抽象的な多彩さではなく具体的な作品で考えられる。
『ANTENNA』で、主題歌の外にある曲へ近づく
二〇二三年の『ANTENNA』には、「ケセラセラ」「Soranji」「Magic」など広く届いた曲と、「Blizzard」「アンラブレス」「Loneliness」「norn」「橙」「BFF」「Feeling」などが収められている。映画やドラマの主題歌から入った人にとって、この一枚は知っている曲の確認で終わるものではない。最初の接点とは別の理由で好きになる曲を見つける場所でもある。
「Soranji」は映画『ラーゲリより愛を込めて』、「ケセラセラ」はドラマ『日曜の夜ぐらいは...』との関係が公式に記される。二つの物語を知る人なら、作品を思い出しながら聴くこともできる。一方、アルバム内の別の曲へ進むと、その物語からいったん離れてバンドを受け取れる。外の物語へ向けられた歌と、一枚の中で初めて出会う歌が同じ場所にあることが、鑑賞の幅を作る。
ここで、タイアップの記載がない曲ほど本音に近いなどと考える必要はない。用途の有無と表現の深さは、単純には結び付かないからだ。むしろ、最初から背景を知っている曲と、情報の少ないまま聴く曲で、自分がどのように感想を作っているかを比べると面白い。先に物語があるとき、ないとき、それぞれ何が心に残るかを確かめられる。
アルバム名の「ANTENNA」を、受け取り方を広げる比喩として使ってみるのもよい。これは作者の意図の断定ではなく、こちらの鑑賞を助ける読み方だ。歌詞だけに向いていた耳を伴奏へ、代表曲だけに向いていた関心を別の収録曲へ広げる。作品の情報を増やすだけでなく、自分が受け取れるものを増やす。その変化を一枚の中で試せるところが魅力になる。
「ライラック」の完成品と、録音の記録を行き来する
「ライラック」には、公式YouTubeで公開されたRecording Behind the Scenesがある。完成した音源に加えて、その制作を扱う映像への入口が用意されているという事実は、曲を楽しむ方法を広げる。ここで映像を見たことにして録音現場の会話や演奏を説明するのではなく、実際に見る際にどのような違いを確かめられるかを考えたい。
完成した音源では、演奏の準備や判断の過程は通常、前面に出ない。制作映像を見るときには、曲の一部をどう扱っているか、演奏する人がどこへ注意を向けているかなど、音源だけでは持ちにくい問いが生まれる。具体的な発言や作業は映像で確認し、その範囲から考えればよい。完成品を自然に流れてくるものとしてだけでなく、選択の積み重ねとして受け取るきっかけになる。
制作を知った後に音源へ戻ると、以前から好きだった箇所の聴こえ方が変わることがある。技術的な難しさを知れば必ず感動が増える、という話ではない。むしろ、今まで注意を向けていなかった音へ耳が動くことが重要だ。歌から入った人がギターへ、ギターから入った人が他の音との関係へ進むように、関心の場所が少しずつ増えていく。
ミセスの作品では、大森の制作の広さと、三人で表現を届ける現在を同時に見ることができる。「ライラック」の制作映像は、その二つを抽象的な説明だけで済ませず、自分で確かめるための資料になる。曲を聴くことと制作を知ることを、前者が感覚、後者が勉強と分けなくてもよい。どちらも一曲へ近づく別の経験として楽しめる。
『The White Lounge』は、既存曲を物語へ移す
『The White Lounge in CINEMA』は二〇二四年九月十三日に公開された。配給元の松竹は、ライブのための書き下ろし曲と、新たにアレンジされた既存曲を含む作品として案内し、九つの物語という構成を紹介している。この公表情報から分かるのは、単に曲を次々に演奏する記録とは異なり、物語の枠組みと楽曲の再構成が関わる作品だということだ。
既存曲が物語の中へ入ると、聴き手は曲だけでなく、その前後に何が起きたかも受け取ることになる。音源で覚えていた歌が、別の人物や場面との関係を持ったとき、自分にはどう響くだろうか。ここで舞台上の具体的な展開を先回りして説明する必要はない。既知の曲に新しい状況が与えられること自体を、見る際の大きな問いにできる。
この楽しみ方では、曲の意味を一つの物語へ閉じ込めないことも大事だ。舞台で受け取った意味は、その作品の中で成立した一つの経験であり、元の録音を聴くときの感想を消すものではない。舞台を見た後に音源へ戻れば、物語の記憶が重なる箇所と、音だけで改めて受け取る箇所の両方があるだろう。一曲に複数の記憶が共存することを楽しめる。
三人を歌や楽器の担当だけで知っていた人にとっても、物語を持つライブの映画化は別の入口になる。公演の表現と、それを映像として受け取る経験は同一ではない。会場でどこを見るかを選ぶことと、カメラが選んだ画面を見ることには違いがある。その違いまで含めて、一つの公演が別の媒体へ移ることで何が開かれるかを考えたい。
『Harmony』で、アルバムを越えた演奏の接点を探す
映像作品『Mrs. GREEN APPLE on “Harmony”』の収録曲には、「嘘じゃないよ」「クダリ」「Part of me」「norn」「Soranji」「Feeling」などがある。『Attitude』『Unity』『ANTENNA』で出会った曲が、一つの映像作品の中に並ぶことを公式の収録情報から確かめられる。ここでは、発売時期の異なる曲が同じ公演の表現として出会うことに注目したい。
ライブ映像を見る楽しみは、音源との差を数えることだけではない。アルバムでは別々に覚えていた曲が、同じ場所に集まることで、自分の中の距離が変わることもある。「クダリ」を昔の曲として知る人と、『Harmony』で初めて知る人では、その曲が持つ時間が違う。映像作品は、過去の曲を過去に固定せず、いま出会える表現として開き直す働きも持つ。
『The White Lounge』と比べる場合にも、どちらが豪華かという尺度だけでは足りない。物語の構成が公表されている作品と、別の公演として収録された作品では、見る側が持ち込む期待が違う。実際の映像で、曲に集中する瞬間と、公演全体を意識する瞬間を確かめたい。同じバンドのライブでも、作品ごとに受け取り方を変えられることが面白さになる。
また、『Harmony』には制作を扱うドキュメンタリー映像も収録される。公演そのものと、その周囲の過程を分けて見られる点は、録音の完成品と制作映像を往復する体験にも通じる。完成した表現を味わった後で過程へ進み、再び本編へ戻る。何度も同じ映像を見るときに、ただ記憶をなぞるのではなく、別の仕事や関係へ注意を向けられる。
『10』は、記念盤から制作の過去へ戻る入口になる
二〇二五年のアニバーサリーベスト『10』は、CDに「ニュー・マイ・ノーマル」「ダンスホール」「Soranji」「ライラック」「ダーリン」など十九曲を収録する。記念盤という言葉から、すべての時期を均等に並べた年表を想像するかもしれないが、実際の収録内容を確かめると、どの曲が選ばれているかという具体的な輪郭が見える。周年の数字と曲数は、別の情報として受け取りたい。
この作品を入口にする人は、最初からすべての元の作品を知る必要はない。「Soranji」から『ANTENNA』へ、「ダンスホール」から『Unity』へと、気になった曲を起点に戻ればよい。ただし、元のアルバムへ戻る意味は、曲順の違いだけにあるのではない。そこには記念盤に収まっていない曲があり、当時の作品としてまとまった表現に触れられるからだ。
さらに初回限定盤の映像には、Studio Session Live #4として「StaRt」「リスキーゲーム」「L.P」「VIP」「ゼンマイ」「道徳と皿」が挙げられている。CDで近年の曲に出会い、別の映像で過去の曲へ向かうという二つの入口がある。記念作品を、歴史を知る人だけの懐古の品として扱わず、まだ知らない時期へ進む装置として見られるところが面白い。
ダウンロード・アルバムには「道徳と皿 〜2025ver.〜」がボーナストラックとして示されている。ここでも、同じ題名を持つ曲が、時期や形を変えて届くという主題へ戻れる。収録形態を区別することは細かな商品知識のためだけではない。自分がどの録音や映像に触れているかを理解し、異なる時代の表現を混同せずに比較するためにも役立つ。
『10 -Instrumentals-』から、歌を支える音へ戻る
公式には『10 -Instrumentals-』の配信も案内されている。歌声で覚えた曲を、インストゥルメンタルとして聴く入口があることは、ミセスの作品を考えるうえで興味深い。大森の声が強く印象に残る人ほど、歌の周囲にある音へ注意を移したとき、今までの聴き方を別の方向へ広げられるかもしれない。
インストゥルメンタルを聴くことは、歌を取り除いた残りを確認するだけではない。普段は声を追っていた時間に、何が曲の動きを作っているように感じるかを確かめられる。音の細部を専門用語で説明できなくても、どこで緊張が生まれ、どこで気分が動くかは自分の経験として受け取れる。その後に歌入りへ戻れば、声と伴奏の関係にも新しい関心が生まれる。
「僕のこと」のオーケストラ版との比較では、同じ曲の編成を変えて聴く方向があった。インストゥルメンタルでは、歌声へ向いていた注意を別の場所へ向ける方向がある。どちらも、曲を一度覚えたら理解が終わるものにしない方法だ。好きな曲が増えることだけでなく、好きな一曲の受け取り方が増えることも、音楽を長く聴く楽しさになる。
この経験をライブ映像へ持ち込むと、画面の見方も変わり得る。歌を追うだけでなく、ギターやキーボード、他の演奏との関係へ目を向けるきっかけになるからだ。音源、インストゥルメンタル、制作映像、公演映像は、それぞれ別の仕事を見せる。すべてを一つの正解へまとめず、媒体ごとに何へ注意が向いたかを持ち帰ると、一曲の周囲に多くの道ができる。
フェーズ三の「lulu.」を、変化の結論にしない
フェーズ三が始まった二〇二六年一月には、「lulu.」の配信と公式ミュージックビデオの公開が案内された。新しいフェーズの作品に接すると、過去との違いをすぐに大きな言葉で説明したくなる。しかし、一曲だけからその後の活動全体を決め付ける必要はない。新しい作品は、既存の説明を確定する答えにも、次の関心を開く問いにもなり得る。
「lulu.」を聴くときには、活動の区切りを知っている自分と、目の前の曲を受け取る自分を行き来してみたい。新章だと知ることで注意が向く部分もあれば、その情報から離れても気になる音や言葉があるだろう。変化を探すことと、つながりを感じることは両立する。前と違うかどうかだけで評価せず、自分が何を聴きたいと思ったかから始められる。
過去の作品へ戻る際も、似ている曲を探して新作を分類し切る必要はない。『Unity』の再開という位置、『ANTENNA』の外部作品との接点、『The White Lounge』の物語化、『10』の記念作品という役割は、それぞれ違う。新作をそのどれかの繰り返しと考えるより、表現が届く方法をさらに増やす一つの機会として受け取れば、比較は開かれたまま続く。
フェーズの言葉は、ファンが過去と現在を話す際の便利な目印になる。その目印を持ちながらも、曲は境界を越えて聴ける。「lulu.」から「僕のこと」へ戻る日も、『Harmony』から『Attitude』へ向かう日もあってよい。新しい時期を追うことと、過去の作品を深く知ることが互いを妨げず、むしろ次に何を聴くかの選択肢を増やしてくれる。
曲が姿を変えるたび、ミセスへの入口が増える
ここまで見てきた作品には、異なる形の変化がある。「僕のこと」では別バージョン、「私は最強」では提供曲のセルフカバー、「ブルーアンビエンス」では外部の声との共演、『The White Lounge』では既存曲の再編と物語、『10 -Instrumentals-』では歌の周囲へ耳を向ける入口。それらを一括して多彩だと呼ぶだけでなく、何が変わり、何を比べられるかを具体的に分けると楽しみが深まる。
一曲が好きであることは、いつも同じ聴き方を守ることではない。声に惹かれた曲を伴奏から聴き直し、映画で知った歌をアルバムで受け取り、制作映像を見た後でもう一度完成品へ戻る。そのたびに最初の感動が消えるわけではなく、そこへ別の経験が加わる。作品を知るほど驚きが減るのではなく、驚く場所が増えるという関係を育てられる。
ミセスの三人を知る楽しみも、この往復の中にある。担当や人物像を覚えるだけでなく、曲が作られ、演奏され、映像として届く過程で、それぞれの仕事へ注意を向けられる。自分が好きな一人から始めた関心が、別のメンバー、参加者、制作者へ広がることもある。音楽の中心にいる人を知ることが、周囲の仕事を見る目を開いてくれる。
次に作品を選ぶなら、まだ聴いていない新曲だけでなく、好きな曲の別の姿にも目を向けてみたい。オーケストラ版、ライブ映像、制作記録、セルフカバーという道がある。同じ曲へ何度も戻れる理由は、曲が変化することだけでなく、自分の注意や生活が変わることにもある。フェーズを越えて続くMrs. GREEN APPLEの表現は、その二つの変化が出会うたびに、新しい入口を開いてくれる。
