画像は本人の特徴を参考に制作した非公式のAIイラストです。実際の公演写真ではありません。
三人の姿を中心に、音楽と技術の関係を考える
Perfumeのおもしろさは、未来的な音楽、そろったダンス、映像を使ったステージという言葉だけでは説明しきれない。それらが同じ作品の中でどう結びつき、あ〜ちゃん、かしゆか、のっちという三人の存在へ戻ってくるのかが重要だからだ。音楽だけを聴いて惹かれる人も、振付から好きになる人も、技術を使う公演の記録から知る人もいる。その入口の違いは、どの魅力が本質かを争うためのものではない。一つの表現を、耳と目と身体の異なる方向から受け取れることがPerfumeの広がりである。
まず現在地を確かめておきたい。二〇二六年十月二十七日時点で、公式プロフィールは三人のユニットとしてPerfumeを紹介し、二〇二六年からのコールドスリープを記している。これは二〇二五年九月に本人たちと運営から発表された活動の区切りであり、過去の公演を現在開催中のものとして扱うことはできない。一方で、作品の発売や記録の公開は別の時間を持つ。活動の状況と作品へアクセスできることを分けると、今から好きになる人にも、長く追ってきた人にも、落ち着いて向き合う場所ができる。
本稿では『GAME』『LEVEL3』『PLASMA』と『ネビュラロマンス』の前篇・後篇を軸に、録音作品の版の違い、制作に関わる人の役割、舞台と通信技術の関係を考える。曲目を並べるだけでなく、その曲がどんな形で届けられるかにも目を向ける。技術の説明を知っていれば感動が正しくなるわけではないが、何に驚いたのかを言葉にする手掛かりは増える。三人が中心にいることと、多くの作り手が関わることを同時に受け止めると、Perfumeは単に完成度の高いユニットという紹介を超えて、一つの表現が育つ過程まで楽しめる存在になる。
中田ヤスタカの制作と、三人の表現は別々の仕事でつながる
Perfumeの音楽を語るうえで、中田ヤスタカの存在は欠かせない。レーベルの公式紹介でも、Perfumeを手掛ける音楽プロデューサーとして位置づけられている。ただし、音楽のプロデュースという言葉を、そのまま衣装、振付、舞台、発言まで含む全活動の作者という意味に広げないことが大切だ。一つの公演が完成するまでには異なる専門があり、誰がどの領域を担うかを区別したほうが、協働の姿は具体的になる。三人の表現を知ることと、制作側の仕事を知ることは両立する。
自分で詞と曲を書くかどうかだけを、アーティストの主体性のものさしにすると、Perfumeのような表現の成り立ちは捉えにくい。与えられた音楽を身体で成立させること、同じ舞台に三人で立つこと、観客へ届く時間をつくることも、作品を現実にする仕事だからだ。録音と舞台の間には、単なる再現では済まない変換がある。曲の中にある時間を、目に見える動きや位置関係へ変えるとき、歌い手や踊り手の身体は透明な通路ではなく、表現が具体化する場所になる。
一方で、三人の姿に惹かれることが、音楽制作の仕事を背景へ消す理由にもならない。誰の旋律や音の設計を受け取り、どんな振付と演出によって舞台に置くのか。その関係を分けて考えたうえで結び直すと、チームという言葉に実体が生まれる。Perfumeの魅力を誰か一人の天才へまとめるより、異なる仕事が一つの名義の体験へ集まることを見たい。聴き手はすべての工程に詳しくなくてもよい。まず、録音で好きな瞬間と、映像で気になる動きが同じものか違うものかを考えるだけで、作品の見え方は広がる。複数の作り手を知ることは、三人の存在を薄めるどころか、その三人が担っている仕事を見つけやすくする。
『GAME』で、代表曲と個別の視点を行き来する
『GAME』には「ポリリズム」「チョコレイト・ディスコ」「マカロニ」「シークレットシークレット」などが収められている。ヒット曲を入口に選びやすい作品だが、ここで注目したいのは、楽曲の集合に加えて、映像の見せ方にも異なる単位が用意されていることだ。公式の初回限定盤の内容には、「マカロニ」の通常の映像に加え、三人それぞれの名を付したバージョンが載っている。同じ楽曲に、グループを受け取る窓と個人へ焦点を当てる窓があるのである。
これらの映像を実際に確認せず、特定の仕草や場面の違いを描写することはできない。しかし、公式に別バージョンが用意されているという事実だけでも、Perfumeの見方は三人一組の像だけに限られないとわかる。全体として形をつくることと、一人ずつの存在に注目できることは矛盾しない。むしろ、同じ音楽を共有しているからこそ、見る対象を変えたときに何が残り、何が違って感じられるかを考えられる。個人の魅力を見つけることが、そのままグループの関係を見直す入口になる。
『GAME』を過去の成功の記念碑として眺めるだけでは、このような作品内の選択肢は見えにくい。発売年を知ることは歴史を把握する助けになるが、鑑賞の現在を決めるわけではない。初めて「マカロニ」に出会う人にとっては、いま受け取る一曲である。知っている代表曲の隣に知らなかった曲があり、同じ曲にも別の見せ方がある。この二つの広がりを持つ作品として向き合えば、初期のアルバムを聴くことは年表を埋める作業ではなくなる。グループと個人、録音と映像という異なる窓を行き来しながら、自分が惹かれた部分を少しずつ具体的にできるのである。
『LEVEL3』のアルバム用ミックスは、既知の曲を開き直す
『LEVEL3』では「Spring of Life」「Magic of Love」「Spending all my time」にAlbum-mixという表記がある。公式ディスコグラフィーは、これがアルバム用にアレンジされたバージョンであることを説明している。ここから確実に言えるのは、シングルで知った曲をそのまま並べただけの作品ではないという点だ。既知の題名を見つけても、もう知っているから確認する必要はないと閉じずに、アルバムのために用意された版として受け取る理由が生まれる。
版の違いを考えるとき、楽曲の基本的な同一性と、録音としての形は分けられる。同じ題名で認識できる曲でも、どの形で提示されるかによって一枚の中での働きは変わりうる。ここで実際の音を照合せず、特定の音が増えた、速度が変わったと断言する必要はない。むしろ、違いを確かめる問いを持てることが重要である。シングルで覚えた曲へ戻り、アルバム版へ移り、その前後も含めて聴く。その往復は、初めて聴く曲を探すこととは別の新鮮さを与えてくれる。
『GAME』にある個人別の映像と比べると、ここでは別の種類の窓が開いている。前者は同じ曲へ向ける視線を変え、後者は作品へ収める音楽の形を変える。どちらも、完成した一曲に一つの受け取り方しかないわけではないと示している。Perfumeを知る楽しさは、新曲が出るたびに次へ進むことだけにあるのではない。同じ曲を別の形で受け取り直すことにもある。アルバム用ミックスという短い表記は、そのための具体的な入口だ。版を区別して聴くことは細部を競う知識ではなく、自分の記憶にある曲と、いま届けられる曲の間にある距離を楽しむ方法なのである。
MIKIKOのクレジットから、振付と演出を分けて考える
Perfumeの舞台を知るときには、MIKIKOの仕事も重要になる。本人の公式サイトにはPerfumeの公演について演出振付の担当が掲載されている。また、二〇一五年のSXSW公演を制作側が紹介するページでは、舞台演出、映像演出、振付の役割にMIKIKOの名がある。ここから見えるのは、振付が身体の動きの組み合わせだけで独立しているのではなく、どの場所からどう見えるかを設計する仕事と結びついているということだ。
踊りのある音楽作品を観る際、動きがそろっているという感想は入口になる。しかし、その先には、誰がどこにいるか、三人の間にどんな空間があるか、視線をどこへ向けるかという問いがある。これらは特定の公演の未確認の場面を描写することではなく、実際に映像を観る際に持てる観察の軸だ。同じ振付でも、全身が見える距離と顔に近い距離では受け取る情報が違う。動きそのものと、その動きを届ける視点の両方が、観客の経験に関わってくる。
三人という人数も、この関係を考える具体的な条件になる。一人の動きだけではなく、二人の間、さらに三人全体の形を見られるからだ。全員が同じことをする場面と違うことをする場面を、どちらが優れているかで比べる必要はない。揃うことを感じるには違いを認識する目も必要であり、個人を見つけるには全体の構造も手掛かりになる。MIKIKOのクレジットを読むことで、踊りの完成度という一語の奥にある設計の領域が見える。技術を多く使う作品であっても、最後に目が向くのが人の身体であるなら、その身体をどう見せるかは表現の中心に残り続けるのである。
SXSWの制作記録が示す、現実と映像をつなぐ設計
Rhizomatiksが公開する二〇一五年のSXSW公演の制作記録では、事前のスキャン、動きの追跡、投影、映像合成などを組み合わせた仕組みが説明されている。スタッフ欄にも、演出振付に加え、技術演出、プログラミング、カメラシステムの開発など異なる役割が並ぶ。ここで要点を一つに絞るなら、映像を舞台の背景として流すだけではなく、現実の出演者と映像をどのようにつなぐかまで設計しているということだ。
この記録を知ると、ライブという言葉が指すものも少し複雑になる。その場で身体が動いている時間と、あらかじめ準備したデータがあり、それらを受け取り手へ届けるための映像処理がある。事前の準備があるから生の表現ではない、という二択では捉えきれない。むしろ、準備した仕組みの中で現実の動きがどのように成立するかが作品の条件になる。技術の説明は、人間の存在を薄くする情報ではなく、その身体をどんな仕組みで別の見え方へ変換しているかを知る情報として読める。
制作記録にある複数の職能を、難しい専門語の一覧として読む必要もない。カメラを扱う人、映像と動きを結びつける人、舞台全体を考える人が協働していると理解すれば、画面の中で起こることを一人の発想だけへ還元せずに済む。Perfumeの三人は、そのシステムが扱う単なる素材と考えるより、観客が出来事を理解するための継続した基準として見るほうが豊かだろう。異なる表現の層が重なっても、三人の存在を追うことで受け取り手はつながりを見つけられる。技術が目新しいという評価から一歩進み、何を見失わせずに何を変えているのかを考えると、作品の設計が鑑賞の話へ戻ってくる。
会場と配信は、同じ出来事への異なる入口になる
SXSWの制作側の説明には、生中継のための映像システムも含まれている。これは、ライブの記録を後日残すことと、その瞬間に画面を通して作品を受け取ることが、必ずしも同じ仕事ではないと示す例になる。会場の観客は自分の視線を動かせる一方、配信では選ばれたカメラの視点が経験をつくる。どちらも同じ出演者の時間に関わるが、目に入るものの範囲や順番は異なる。その違いは、片方を本物、もう片方を代用品と呼ぶだけでは捉えられない。
Perfumeのように舞台と映像技術が関係する表現では、画面が新しい鑑賞の場所になることも考えられる。大きな会場へ行けない人が映像から入ることは、魅力の一部しか知らないという劣った状態ではない。画面を通して初めて意識する構成があり、逆に現場の空間で意識しやすい関係もある。具体的にどこが違ったかは各公演を確認して語るべきだが、観る場所の違いをあらかじめ認めるだけでも、ファン同士の感想のずれを自然に受け止められる。
この見方は過去の映像作品を観るときにも役立つ。映像で三人に近づける場面があることと、公演全体の距離を感じ取れることは別であり、カメラの選択が自分の注意を動かしている。画面に見えている範囲だけで舞台のすべてを知ったつもりになる必要はないが、見えたものから受け取った感動は十分に自分のものだ。Perfumeの表現を追うとは、技術の進歩を年表に並べるだけでなく、聴き手や観客の居場所がどのように増えたかを考えることでもある。会場、配信、映像作品という入口を行き来すると、同じ曲に出会うたびに違う距離を持てるのである。
OK Goとの一曲に見る、制作の組み合わせの変化
「I Don't Understand You」はOK GoとPerfumeの共同名義で発表された曲である。公式レーベルの告知には、作詞がDamian Kulashと中田ヤスタカ、作曲がDamian Kulash、編曲が中田ヤスタカ、プロデュースが両者というクレジットが載る。この具体例は、Perfumeの制作を一つの固定した方式として理解しないために役立つ。曲の名義と作詞作曲の名義、編曲の役割が分かれ、異なる作り手の仕事が一つの録音へ集まっている。
公式には、互いのミュージックビデオへの出演が楽曲の協働につながったと説明されている。ここで映像の具体的な場面を見たように語る必要はない。映像での交流が音楽制作へ進んだという関係そのものがおもしろいからだ。Perfumeの活動は、音楽をつくってから宣伝用の映像を足すという一方向だけでは説明できない。見せ方を共有する場が、別の音楽へつながることもある。表現の領域を行き来することが、新しい協働の入口になっている。
この曲を通常の作品と比べる際には、海外の相手と組んだから音楽が広くなったという漠然とした評価より、誰がどの工程に参加したかを具体的に見るほうがよい。共作という言葉の内側にも、作詞、作曲、編曲、プロデュースという違いがある。同時に、クレジットだけで実際の作業のやり取りや本人の気持ちまで知ることはできない。その線を保ちながらも、いつもの関係に別の作家が入ると何を聴き比べられるかという問いは立てられる。作品の個性は、一つの制作方式を守ることでだけ生まれるわけではない。関係の組み合わせが変わったときにも同じ名義が存在する、その連続と変化を受け取ることが、長く聴く楽しさなのである。
『PLASMA』では、音源とダンス映像を別の窓にする
『PLASMA』の公式収録情報を見ると、「Time Warp」にはv1.1、「ポリゴンウェイヴ」にはOriginal Mixという表記がある。『LEVEL3』のAlbum-mixと同じ表記ではないため、すべてを一括してアルバム版と扱わないほうがよい。名前が似ている録音でも、公式にどのような区別が付いているかを確かめることが、比較の出発点になる。版の名は付録的な情報ではなく、どの作品を受け取っているかを示す手掛かりなのである。
さらに付属映像の案内には、「Flow」のDance VideoとVideo Clipが別々に記されている。これらの名称から、同じ曲について異なる形式の映像が提供されていることが確認できる。具体的なカットや振付の見え方は実物を観て確かめたいが、比較の対象があると知るだけで聴き方は広がる。音源のみで受け取った印象を持って映像へ進み、次に踊りへ焦点を合わせた映像を見る。耳で感じていた区切りと、目が注目する区切りが一致するかどうかを、自分で確かめられる。
この往復で大切なのは、映像を観たあとで音楽の正解がわかる、と考えないことだ。音楽だけで生まれた連想も、身体の動きを観て変わった印象も、それぞれ作品との関わりとして残せる。『PLASMA』という一枚には、音源の版を比べる入口と、映像の形式を比べる入口がある。Perfumeの作品は観なければわからない、あるいは音だけで十分だと分けるより、両方を行き来したとき何が増えるかを問いたい。振付を覚えるためだけに映像を観るのではなく、自分の耳がどこを聴いていたのかを発見するために観る。ダンスは曲に付く説明ではなく、同じ時間に触れる別の方法として受け取れるのである。
機械を連想する題名のそばに、身体の問題がある
『PLASMA』には「アンドロイド&」があり、『ネビュラロマンス 後篇』には「Human Factory - 電造人間 -」がある。二つの題名を並べると、人間と機械の境界という連想が生まれる。ただし、タイトルだけから歌詞の内容や作者の考えを確定することはできない。ここではあくまで、Perfumeの作品を受け取る側に開かれる問いとして扱いたい。人の身体が技術と結びつく表現を続けてきたユニットの作品に、こうした語が現れるという関係がおもしろい。
Perfumeを機械的という一語で説明すると、精密に見える表現を褒められる一方で、身体が担っている負荷や時間を見失うことがある。逆に、技術より人間らしさが大切だと単純に言い換えても、技術を取り込んだ作品ならではの関係は薄くなる。機械と人間をどちらか一方へ分けるのではなく、身体の動きがデータになり、データが映像の形を変え、その映像を通してまた身体を見るという往復を考えたい。その間をつなぐ中心に三人がいることが重要なのである。
二つの曲は異なるアルバムに収められているため、同じ主題の続編だと決めつけず、まず別々の作品として聴くことができる。そのうえで、自分が題名から抱いた予想と、実際に感じたことを比べればよい。技術を思わせる名前の曲が必ず冷たい印象になるとは限らず、人間を含む名前だから感情が直接説明されるとも限らない。この余白を残すことで、Perfumeを近未来という固定したイメージへ閉じ込めずに済む。作品の言葉を入口に、いま目の前にある人の存在と、画面を通して受け取る像の関係を考える。そこに、音楽と舞台技術を別々に語るだけでは生まれない鑑賞の深さがある。
『ネビュラロマンス』は、二作品を一つの関係で読む
『ネビュラロマンス』の前篇と後篇は、公式に連続するコンセプトアルバムとして紹介されている。前篇と後篇という名前は、単に発売順が前後している以上の関係を示す。とはいえ、二枚を一つの長い作品としてだけ扱うと、それぞれのまとまりも見えにくくなる。まず各十曲の作品として受け取り、そのあとで二枚のつながりへ戻ると、部分と全体を行き来できる。『GAME』や『LEVEL3』とは異なる、作品間の関係がはっきり提示された例として考えられる。
前篇には「The Light」「IMA IMA IMA」「タイムカプセル」などがあり、後篇には「再起動世界」「ネビュラロマンス」「巡ループ」などがある。時間や世界の変化を連想させる言葉が散らばっているが、それらを並べて独自の筋書きを事実のようにつくる必要はない。公式の説明が示すコンセプトと、受け取り手が題名から広げる連想は別の層である。物語の細部を当てることより、二枚という長さで作品に向き合うと、単曲の印象がどう変わるかを考えるほうが自由度は高い。
前篇の段階では続きを待つ時間があり、後篇が出たあとには前篇へ戻る時間が生まれる。この違いは、同じ録音であっても聴き手の経験が変わるということだ。今から二枚を続けて聴く人と、発売当時に間隔を置いて受け取った人では、作品との距離が違っていて当然である。どちらかだけが正しい体験ではない。後篇を知った状態で前篇を開くと、以前は気にならなかった題名や曲が目に入るかもしれない。Perfumeの作品を未来へ進む変化として追うだけでなく、後の作品が前の作品を照らし返す関係として捉えると、長い活動の中にも新しい往復が生まれる。
NTTとの実験で、伝える対象が画面の外へ広がった
二〇二五年四月二日、Perfumeのパフォーマンスを用いたリアルタイムの三次元空間伝送実験が行われた。NTTの公式発表によると、吹田の万博公園と夢洲のNTTパビリオンをIOWNでつなぎ、出演者を含む空間の情報と振動の情報を遠隔地へ伝えて再現したという。ここで重要なのは、映像を高画質で送るという話だけではなく、身体のある場所そのものをどこまで共有できるかが扱われていることだ。
SXSWの制作記録と比べると、問いの向く先の違いが見えてくる。SXSWでは現実と映像をつなぐ表現の仕組みが説明され、NTTの実験では離れた場所へ空間情報を届ける仕組みが説明されている。どちらも技術を使うPerfumeの表現だが、すべてを最新映像という一語でまとめると、この差が消えてしまう。画面の中で何を見せるかと、離れた場所に何を届けるかは、重なる部分を持ちながらも別の問いなのである。
この違いを知ると、観客の存在についても考えられる。音楽の体験は耳に届く情報だけで成立するわけではなく、目線や距離、足元の感覚とも関係する。ただし、本稿は現地で体験した感想を代弁するものではなく、公表された仕組みから鑑賞の論点を整理している。技術によって何が伝わるようになったかを知ることと、実際に何を感じたかは区別したい。その区別を保ちながらも、三人のパフォーマンスが通信の研究と交わることで、ライブに参加するとは何かという問いが広がったと考えられる。Perfumeを技術の展示台として見るだけではなく、届けたい存在があるから伝送の意味が生まれると見る。その順序で考えると、技術の話が再び三人の表現へつながってくる。
「ネビュラロマンス」が、録音と実験の両方に居場所を持つ
『ネビュラロマンス 後篇』の公式曲目には、表題曲が大阪・関西万博のNTTパビリオンのメインコンテンツ楽曲であると記されている。一つの曲が、アルバムの中の収録曲であると同時に、技術とパフォーマンスを組み合わせた取り組みの音楽でもある。作品と外部の企画がつながるとき、その曲は複数の文脈を持つ。片方を知った人がもう片方へ進むことで、同じ題名に別の記憶が重なっていく。
この関係は、主題歌をきっかけにアルバムを聴く体験と似ている部分もあるが、伝送や空間再現の仕組みまで含む点に独自性がある。曲が流れる場面を思い出すだけでなく、誰がどこにいて、どのように受け取ったかという体験の条件が関係するからだ。アルバムで初めて聴いた人には一つの曲として届き、実験の情報から入った人には技術と結びついた記憶を呼ぶ。同じ録音へ違う入口があることは、解釈の不一致ではなく作品の広がりとして受け止められる。
前篇の特典案内には「IMA IMA IMA」のNTTとの周年パフォーマンスも載っている。前後篇を音楽作品として読む道と、公演や技術の記録を通して読む道が、複数の地点で接しているのである。両方をすべて知るまで作品を楽しめないわけではない。まず一曲に惹かれ、あとで別の居場所を知る順番でもよい。Perfumeの活動を追うとき、音楽、振付、技術を別々の棚にしまうだけではなく、同じ曲名がどの棚にも現れることに注目すると、関係が見つかる。作品の数が増えること以上に、すでに知っている曲へ戻る道が増えることが、長く応援する時間を豊かにしてくれるのである。
コールドスリープの今、記録と新しい発表を混同しない
二〇二五年九月の公式メッセージでは、二〇二六年から一度コールドスリープに入ることが伝えられた。同日の運営告知は、その区切りと、二〇二六年にも公開する情報があることを分けて説明している。したがって、後から作品が発売されることを、そのまま三人のライブ活動が再開したという意味に読み替えることはできない。この現在地を押さえることは、活動の話題だけでなく、作品をどういう時間の記録として受け取るかにも関わる。
二〇二六年九月には、同年十二月二十三日発売予定の『Favorites(Selected by Perfume)/コールドスリープ』が公式に告知された。そこでは三人がそれぞれ曲を選ぶ構成が示されている。本稿の確認日には発売前の作品として扱う必要があるが、選曲する三人という視点は興味深い。歌い踊る人が、自分たちの作品を選び直して提示することは、過去の曲との別の関わり方だからだ。録音の作者、舞台の出演者という役割に加え、作品を振り返る選び手としての視点がある。
『GAME』にあった個人別の映像を思い返すと、三人を一組として受け取ることと、一人ずつの視点へ近づくことが、別の形でまた現れるようにも考えられる。もちろん、発売前の収録内容や音の変化を想像で評価することはしない。ただ、選ぶという仕事も作品との関係をつくると知れば、過去の音楽に向き合う時間は待機だけではなくなる。活動の区切りを急いで美しい物語へまとめたり、未発表の再開時期を期待で埋めたりせず、現在受け取れる録音と記録を具体的に楽しむ。Perfumeの作品が持つ複数の入口は、その時間を支えるだけの厚みを持っている。
Perfumeを好きな理由を、音と身体と場所から言い直す
Perfumeの魅力を未来的という言葉でまとめることはできる。しかし『GAME』の個人別映像、『LEVEL3』のアルバム用ミックス、『PLASMA』の異なる映像形式、『ネビュラロマンス』の前後篇、そしてSXSWやNTTとの取り組みを見比べると、未来という一方向だけではない関係が見えてくる。同じ曲の別の版へ戻り、全体から個人へ焦点を動かし、別の場所で同じ時間を受け取る。変化は、次の新しい技術へ進むことだけではない。
三人の身体は、そうした関係をつなぐ継続した存在である。制作の専門が増え、映像の見せ方が変わっても、誰がそこにいるのかという問いへ戻れることが、作品を単なる仕組みの紹介にしない。中田ヤスタカ、MIKIKO、技術や映像の作り手を知るほど、三人の存在が小さくなるわけではない。むしろ、異なる仕事がどこで三人の表現へ集まり、観客へ届くのかを考えやすくなる。共同制作を知ることは、推しの仕事をより具体的に知ることでもある。
次にPerfumeの作品へ触れるなら、好きな曲の題名だけでなく、どの版を聴いているか、どんな形式の映像を観ているか、どの時点の公演を受け取っているかにも少し目を向けたい。それだけで、同じ作品へ戻る理由が増える。音楽を聴くこと、踊りを見ること、技術の記録を読むことは別々の趣味で終わらず、一つの体験の異なる面になりうる。コールドスリープという現在地にあっても、作品との関係まで止める必要はない。三人の表現がどのように音と身体と場所を結びつけてきたかをたどることで、Perfumeを好きだという気持ちは、思い出の保存だけではなく、いま新しい発見をする時間として続いていく。
