画像は本人の特徴を参考に制作した非公式のAIイラストです。実際の公演写真ではありません。
YOASOBIの曲を聴いた後、原作小説を開くと、同じ物語に出会ったはずなのに違う時間を過ごしたように感じることがある。文章では自分でページを進め、気になる一文で止まれる。音楽では、声と旋律が先へ進む中で、言葉との出会いが起きる。小説を音楽にするという活動の核は、筋書きを短くまとめることだけでは説明できない。物語を受け取る速度、人物へ近づく距離、記憶に残る順番を、別の表現へ移す仕事として考えられる。
コンポーザーのAyaseとボーカルのikuraによるYOASOBIは、「夜に駆ける」から、書籍企画『はじめての』、アニメ作品とつながる「祝福」「アイドル」「勇者」へ、異なる入口を持つ物語を音楽にしてきた。本稿では原作の結末を説明し尽くすのでなく、公式に確認できる制作の組み合わせを手がかりに、原作、曲、映像、書籍がどのような関係を結ぶかを考える。曲から物語へ戻る人にも、小説から曲へ進む人にも、それぞれの楽しみを残した鑑賞コラムである。
「小説を音楽にする」は、あらすじを歌うことと違う
小説と楽曲の関係を考えるとき、最初に比べたくなるのは内容の一致だろう。どの人物が出てくるか、どの場面が選ばれたか、同じ言葉があるか。そうした照合は一つの楽しみだが、それだけを評価の基準にすると、音楽が原作の説明資料になってしまう。小説の一段落にかける時間は読者ごとに違う。楽曲には演奏の長さがあり、言葉を受け取る速度がある。同じ出来事を扱っていても、受け手に与えられる時間の形は異なる。
YOASOBIの活動では、Ayaseの制作とikuraの歌唱という二人の役割が、その違いを考える具体的な入口になる。文章を読む人が音楽の言葉を作り、その言葉を別の人の声が届ける。原作者から聴き手まで一人の想像だけが一直線に届くのでなく、読む、作る、歌うという複数の行為を通る構造だ。だからこそ、声を聞いて感じる親密さを、そのまま原作者や歌い手の私生活の告白と同一視する必要はない。誰かが書いた人物を、別の誰かが声によって引き受ける仕事として聴ける。
この構造を踏まえると、原作と楽曲に違いを感じたときも、それを直ちに不足と考えずに済む。文章の中で時間をかけて分かることを、音楽では一つの言葉の反復や、声の置かれる時間によって受け取ることがある。ただし、具体的に何をどのように変えたかは作品ごとに確かめたい。すべての曲に同じ翻案の方法があると決めつけないことが大切だ。YOASOBIの面白さは、同じ二人の名前で届く曲の背後に、毎回異なる作家と物語の条件があることにある。
「夜に駆ける」から、物語の枝分かれを知る
「夜に駆ける」の原作は、星野舞夜による『タナトスの誘惑』である。この関係は、曲の解説として知られているだけでなく、さらに別の表現へ展開している。ソニーミュージックの公式告知によれば、原作とスピンオフ小説『夜に溶ける』を基に、新たな脚本によるオーディオドラマも制作された。つまり、小説が一度楽曲になって役割を終えたのではない。小説から曲へ、小説と関連作から音声劇へという、複数の道がある。
ここで楽曲とオーディオドラマを同じものとして扱わないことが重要だ。歌では一人の歌唱がさまざまな言葉を運ぶ一方、音声劇では役ごとの声や会話の配置が作品の単位になる。公式告知には脚本と出演者が明記されており、単に曲を朗読へ置き換えたものではないと分かる。どちらが原作を忠実に伝えるかという競争より、同じ原作に対して表現の形式が変わると、受け手は何に注意を向けるようになるのかを考えたい。声の人数や役割が変わるだけでも、人物との距離を感じる条件は変わる。
曲を先に知った人が原作へ戻ると、文章を読む前から題名や歌声の記憶を持っている。そのため完全な初読とは少し違う経験になるが、それを損失と考える必要はない。音楽の記憶を持つ読者として文章に出会い、文章の記憶を持つ聴き手として曲へ戻る。その往復のたびに、どこへ注意を向けるかが変わりうる。物語の結末を知ることだけが作品理解ではない。知った後にもう一度触れたとき、何が違って聞こえ、何が変わらず残るかを確かめられることも、原作を持つ楽曲の強みである。
「あの夢をなぞって」と、原作名を残す意味
「あの夢をなぞって」は、いしき蒼太の小説『夢の雫と星の花』を原作とする楽曲だ。原作と曲は同じ題名ではない。小説には二つの具体的なイメージが並び、曲には夢に対して行う動作が置かれている。ここから内容を勝手に補うのでなく、題名の仕事の違いを考えると面白い。小説の名前は一つの世界へ入る扉になり、曲の名前は何かをするという動きの感覚を入口にする。同じ物語に関わっていても、受け手に最初に差し出す言葉は別々に選ばれている。
そのため、曲を紹介するときに原作名も併記されることには大きな意味がある。原作がただ制作の背景へ隠れるのでなく、別の作品として探せる状態に置かれるからだ。「曲の元になった話」とだけ呼ぶと、小説は音楽を説明するための材料に見えてしまう。作者と題名が明示されていれば、小説は小説として読む対象になる。楽曲を好きになった人が、新しい作家に出会う入口を持てる。この接続はヒット曲の補足情報以上の働きをしている。
二〇二六年の公式告知では、この曲が新たな広告の場でも使われることが案内された。制作時点の原作との関係が変わったわけではないが、曲に初めて出会う場所は増えている。小説から知る人、配信で知る人、広告で耳にする人では、最初に持つ情報が違う。それでも原作への道が残されていれば、後からたどることができる。YOASOBIの曲の広がりは、原作を知っている人だけに閉じた表現と、背景を一切持たない音楽の二択ではない。入口は広く、気になったときには出発点まで戻れる、という二層の楽しみ方が成立している。
『はじめての』は、四つの物語を同じにしない企画
書籍『はじめての』では、島本理生、辻村深月、宮部みゆき、森絵都の四人が小説を書き下ろし、それぞれからYOASOBIの楽曲が生まれた。対応は、島本理生『私だけの所有者』と「ミスター」、森絵都『ヒカリノタネ』と「好きだ」、辻村深月『ユーレイ』と「海のまにまに」、宮部みゆき『色違いのトランプ』と「セブンティーン」である。ここでは既存の小説を後から集めたのではなく、共通のお題の下で生まれた異なる作品が音楽へつながる。
共通しているのは「はじめて」という入口だが、原作名も曲名も統一されていない。所有者、種、幽霊、トランプという小説側の言葉と、呼びかけ、感情、海、年齢という楽曲側の言葉を並べると、一つのお題が同じ種類の話だけを生むわけではないと分かる。企画のまとまりは、四作を同じ雰囲気へそろえることではなく、違う作家が同じ条件へどう応答するかを見渡せることにある。音楽側では同じ二人がその違いを受け止めるため、原作者の違いと共通の歌声という二つの軸が交差する。
この関係を考えると、四曲を人気順や自分の好みだけで並べる以外の比較ができる。小説と曲の題名の距離はどれくらいあるか。具体的な物の名前から、人に向ける言葉へ変わっているか。年齢を示す言葉が、原作の世界を知る前にはどんな入口になるか。これは歌詞や小説を代わりに要約する作業ではなく、別々の作品が互いに窓を開ける仕組みを観察する作業だ。ここには、作家名から選ぶ読み方と、曲名から選ぶ聴き方が交わる面白さもある。島本理生の読者が「ミスター」へ来る場合と、曲を知ってから『私だけの所有者』へ向かう場合では、最初から持っている期待が違う。前者は書き手の新しい仕事を、後者は好きな曲の出発点を探すだろう。同じ二作品を経験しても順番によって問いが変わるため、四つの組み合わせは固定されたセット以上のものになる。
同じお題でありながら違う答えが並ぶからこそ、一曲を好きになった後に別の曲へ進む理由が、単なる新曲探し以上のものになる。
「ミスター」と「好きだ」が見せる、名前の焦点
『私だけの所有者』から「ミスター」へ、『ヒカリノタネ』から「好きだ」へ。この二組の題名を比べると、原作と楽曲が異なる大きさの言葉を入口にしていることが見える。前者の原作名には関係を説明する語があり、曲名は人へ向ける呼称として読める。後者の原作名には比喩的な物の名前があり、曲名は感情を述べる短い文になっている。どちらも小説の題名をそのまま歌の題名に移していないが、移り方まで同じではない。
「ミスター」という言葉は、相手の詳しい人物像を説明せず、まず誰かに向けられる方向を作る。「好きだ」という言葉も、何が起きたのかを順序立てて示すより、感情を伝える行為を前に出す。この違いは、楽曲が原作の情報を減らしただけなのかという問いを考え直す助けになる。情報の量は少なくても、言葉を誰に向けるかという力は強くなる場合がある。ここで実際の歌詞の視点を未確認のまま断定するのでなく、題名の段階ですでに別の入口が選ばれていると捉えたい。
原作を読んだ後に曲名へ戻ると、その短い言葉に重なる情報は増える。一方、原作を知らない段階では、聴き手自身の経験を重ねる余地が広い。この二つの状態は、正しい鑑賞と不完全な鑑賞の関係ではない。具体的な物語を知ることで深まる部分と、まだ特定の人物を知らないから自分へ近く感じる部分は両立する。YOASOBIの楽曲では、原作があるという事実が想像を閉じるとは限らない。原作と曲が別の題名を持つこと自体、二つの作品の間にある距離を保ち、行き来する余地を作っている。
「海のまにまに」と「セブンティーン」を並べる理由
『ユーレイ』と「海のまにまに」、『色違いのトランプ』と「セブンティーン」という二組にも、題名の焦点の移動がある。前者では存在の名前から場所と動きの感覚へ、後者では物の名前から年齢の語へと入口が変わる。小説を未読の段階で細部を言い当てようとする必要はない。むしろ、この題名の違いを持ったまま原作と曲を行き来すると、どちらの作品にも最初から一つの説明を押しつけずに接することができる。
「セブンティーン」は特定の年齢を表す言葉だが、その年齢の人にしか届かない題名ではない。今その年齢にいる人、以前通った人、まだそこへ届いていない人では、同じ数字から想像する時間が違う。物語に具体的な条件があることは、受け取り方の幅を狭めるとは限らない。具体性があるから、自分との距離を測れる場合もある。「海のまにまに」も、曲名だけで原作の人物を説明するのでなく、聴き手がまずある場所や揺れ動く感覚を思い浮かべる余地を残す。その余地が、小説を読む動機になることもあるだろう。
四曲をまとめる『はじめての』という枠は、こうした異なる距離を同じ棚に置く。恋愛の言葉として入りやすい曲名もあれば、風景を思わせるもの、人物への呼びかけに見えるものもある。企画を知ると一つのまとまりとして聴けるが、一曲だけで入口が成立することも妨げられていない。ここに、書籍企画とポップソングが組み合わさる利点がある。小説集の全体を読む経験と、偶然一曲に出会う経験は速度が違う。その速度の違う入口を、原作者と作品名の明示によって後から結び直せるのである。
『BEASTARS』の二曲は、同じ世界の別の距離
TVアニメ『BEASTARS』第二期では、「怪物」がオープニング、「優しい彗星」がエンディングとして用いられた。アニメ公式サイトの板垣巴留とYOASOBIの対談では、楽曲のための小説が制作されたことに加え、二作の書き方の違いが語られている。オープニング側はレゴシの一人称を中心とし、エンディング側はルイとイブキの会話を軸とする。ここでは同じ作品の音楽を二曲作るだけでなく、物語へ近づく視点そのものが変えられている。
この制作上の違いは、オープニングは勢い、エンディングは余韻という単純な分類より具体的だ。独白には、一人の人物が世界をどう受け止めるかを追う強さがある。会話には、相手がいることで初めて言葉になることや、二人の間に残る距離を扱う可能性がある。実際の音楽の細部をここで代わりに決めつけるのでなく、原作側の語り方が異なるという条件を持って聴くと、二曲の関係を作品の中心と付録のように扱わずに済む。
同じ世界を別の人物の側から考えることは、作品全体を広く受け取ることにもつながる。主人公を中心に筋を追うだけでは、他の人物の時間は背景へ退きやすい。別の人物を軸にした小説と楽曲があれば、その人物にも一曲を受け持つだけの時間があると気づける。YOASOBIの仕事を、アニメの魅力を歌で宣伝する役割だけに限定しない方がよい理由はここにある。原作者が別の文章を書き、それを音楽が受け取ることで、既存の世界の中に新しい焦点が作られる。二曲を並べることは、異なる速度や視点で同じ世界へ入ることでもある。
「祝福」は、アニメと小説の間に橋を置く
「祝福」は『機動戦士ガンダム 水星の魔女』のオープニングテーマであり、シリーズ構成・脚本を担当する大河内一楼が書き下ろした小説『ゆりかごの星』を原作とする。この組み合わせでは、アニメという映像作品と楽曲の間に、楽曲のために書かれた文章が置かれている。アニメの筋を短く抜き出して歌にした、と説明するより、作品に関わる書き手が別の形式で言葉を用意し、それをYOASOBIが受け取る関係として見る方が正確だ。
題名の関係にも、二つの入口がある。『ゆりかごの星』は場所や包まれる感覚を連想させる一方、「祝福」は誰かに向ける行為や気持ちを表す。これは小説の内容の断定ではなく、題名の語彙の違いである。原作名を知ってから「祝福」を見ると、何が、誰から、誰へ向けられるのかという問いが生まれやすい。曲だけで十分に楽しめる一方、原作があることによって、短い題名の背後に複数の関係を考える入口が増える。
公式の商品案内では、書き下ろし小説もパッケージに付属すると説明されている。ここでは原作が調べたい人だけの裏話に留まらず、音楽と同じ商品に収められる。読むものと聴くものを同時に手に取れる設計は、YOASOBIのコンセプトを宣伝文句から実際の鑑賞行為へ移す。音を聴いた後にページへ戻ること、ページを読んだ後に同じ曲を再生することが自然な選択肢になる。物語が曲の答えを教えるのではなく、別の媒体に触れることで曲への問いが増える。その往復が、アニメの放送枠を離れても楽曲を楽しめる理由の一つになる。
「アイドル」と『45510』が作る、複数の入口
「アイドル」はTVアニメ『【推しの子】』のオープニング主題歌で、赤坂アカの書き下ろし小説『45510』を原作とする。ここでもアニメの原作世界と楽曲の間に、曲のための小説がある。曲名は広く知られた言葉であり、小説名は数字の並びだ。この入口の差は大きい。「アイドル」という語からは多くの人がそれぞれの経験や印象を持ち込めるが、『45510』という題名は、それだけでは内容を説明せず、読み進める動機になる。
この関係から考えられるのは、楽曲が原作を知る人だけへ閉じる必要がないということだ。広い言葉を入口にして曲へ近づき、後から固有の物語を知ることもできる。逆に作品を先に知っている人は、曲名の一般的な言葉に具体的な人物や関係を重ねる。同じ曲が二つの聴き方を受け止めるためには、原作とのつながりと、一曲として外へ開かれる力の両方が必要になる。YOASOBIの作品を考える際、「原作があるから説明的」「ヒットしたから一般化された」という二分法では捉えにくい点である。
公式のCD案内には、日本語版に加えて英語版、Anime Edit、Instrumentalが示されている。ここでは同じ楽曲が、言語、放送の尺、歌唱の有無という異なる条件で提示される。すべてを一つの音源と同じものとして扱うのではなく、何が変更の軸かを見れば、曲を受け取る場の広さが分かる。原作小説が一つでも、音楽の入口は一つとは限らない。聴き手は自分が最初に接した版を出発点に、別の版や文章へ移れる。このような入口の多さは、物語の輪郭を消すことではなく、異なる場所にいる人が同じ作品へ近づくための通路を増やすこととして捉えられる。
「勇者」では、原作者と執筆者を区別して読む
「勇者」はTVアニメ『葬送のフリーレン』のオープニングテーマとして発表され、楽曲用原作小説『奏送』を基に制作された。公式のクレジットは、執筆を木曾次郎、監修を山田鐘人として示している。ここは小さな表記に見えて重要だ。楽曲のために原作側が協力していても、すべてを漫画の原作者が直接書いたとまとめることはできない。誰が文章を書き、誰が監修したかを分けることで、作品をつなぐ仕事の実際の形が見える。
「祝福」ではシリーズ構成・脚本を担う書き手、「アイドル」では原作者の書き下ろし、「勇者」では別の執筆者と原作者の監修という形がある。同じYOASOBIのアニメ関連曲でも、文章が生まれる経路は一律ではない。この違いを知ると、原作への理解とは一人の作者の意図をそのまま移すことだ、と単純には考えられなくなる。複数の立場が関わりながら、楽曲へ渡すための文章を作る。原作の世界を共有しつつ、異なる媒体へ開くには、こうした役割の分担も表現の一部になる。
『奏送』はCDの付属物として巻物の形でも用意された。内容だけでなく、読むものの形も音楽との関係を作っている。通常の冊子とは異なる形で文章を手にすると、読む行為の印象も変わるだろう。ただし、実際の使用感を見ていないまま語るのでなく、ここでは公式に確認できる物の形に注目したい。YOASOBIの作品では、原作を載せる場所や見せ方までが、曲と文章を行き来するきっかけになる。歌の意味を補うために仕方なく文章を読むのでなく、別の作品として読みたいと思える形で差し出されることに、パッケージの役割がある。
映像は原作の正解を見せる装置ではない
YOASOBIの作品をめぐるクレジットには、音楽と歌唱だけでなく、映像に関わる作り手の名前も現れる。公式告知では、藍にいなが「夜に駆ける」や「ツバメ」のミュージックビデオ、「群青」のジャケットイラストを手がけたことが確認できる。また「もしも命が描けたら」の映像には、同名舞台のアートディレクションにも関わった清川あさみが起用された。これらの事実は、YOASOBIの視覚表現を二人だけの仕事として一括りにできないことを示している。
文章から音楽へ移るときに解釈が生まれるなら、音楽から映像へ広がるときにも別の解釈の段階がある。映像で人物の姿や場所が示されれば、文章を読んだときには自由だった想像の一部が具体的になる。しかし、それを原作の唯一の正解と考える必要はない。映像作品は映像作品として、限られた時間に何を見せるかを選んでいる。小説を読んで浮かべた像と、映像に出会って得た像が違う場合も、その差を残して楽しめる。
ここで実際に見ていない場面を言葉で補わないことは、鑑賞の面白さを減らすことではない。具体的な映像に触れたとき、自分で気づく余地を残すことでもある。制作に参加する人と、その人の役割を先に知っておけば、誰のどの表現に反応しているのかを考えやすくなる。YOASOBIらしいという感想の中にも、楽曲の構造、ikuraの歌唱、映像作家の選択、原作者の言葉という複数の層がある。それらを分けて見た後に全体へ戻ると、作品の統一感が一人の支配ではなく、異なる表現の接続によって生まれる可能性を捉えられる。
『THE BOOK』は、曲を本のように持つ発想
二〇二一年一月六日に発表された最初のEP『THE BOOK』は、読むことと音楽を結びつけたパッケージでも注目された。その後『THE BOOK 2』『THE BOOK 3』へと続き、『THE BOOK 3』には「祝福」「アイドル」「勇者」に加えて、『はじめての』から生まれた四曲も収録された。ここでは異なる原作を持つ曲が、一つの作品集に同居する。原作の世界が同じだからまとまるのではなく、YOASOBIという制作の方法を共有することでまとまりが生まれている。
この点は、同一の主人公が活躍する連作とは違う。アニメの世界が異なる曲と、四人の小説家の作品に基づく曲が一緒にあるからこそ、一つの物語の続きとしてだけは聴けない。聴き手は曲ごとに別の世界へ入る。その移動を支えるのが、Ayaseの制作とikuraの歌唱という共通する軸だ。作品集の統一感を、すべての曲が同じ話をしていることに求めなくてよい。異なる話を同じ二人がどう引き受けるかを見渡せることが、この形式の特徴になる。
本という名前を持つEPを手にすることは、配信で一曲ずつ出会う経験とも違う。配信では、曲を知るきっかけが時間順にもジャンル順にもならないことがある。作品集は、そのばらばらな出会いを後からまとめて置ける場所になる。ただし、曲を集めたから各原作の独立性が消えるわけではない。むしろ一枚の中で異なる出発点を知り、それぞれの本やアニメへ枝分かれすることもできる。『THE BOOK』という枠は一つの世界を閉じる表紙というより、複数の物語へ進むための索引としても働くのである。
英語版は、物語をもう一度通す工程
二〇二一年の英語版EP『E-SIDE』には、既存曲の英語版八曲が収録された。公式告知で確認できる例には、「夜に駆ける」の「Into The Night」、「あの夢をなぞって」の「Tracing A Dream」、「優しい彗星」の「Comet」、「たぶん」の「Haven't」、「群青」の「Blue」がある。ここでは日本語の曲がそのまま外国で流れることと、別の言語で歌われることを区別したい。後者には言葉をもう一度音楽の時間へ置き直す工程がある。
題名だけを見ても、直線的な一対一の置き換えではないことが分かる。「優しい彗星」と「Comet」では表面に出る語の数が違い、「群青」と「Blue」では色の呼び方の幅が違う。ただし、その違いだけで翻訳の成否を決めることはできない。題名は作品を別の言語圏へ差し出す入口でもあり、歌詞全体の選択と同じものさしで判断できるとは限らないからだ。原作小説、日本語の曲、英語版の曲という三つの段階を考えると、物語が媒体だけでなく言語もまたぐことが見えてくる。
英語版から初めてYOASOBIを知った人は、日本語版を最初に聴いた人とは違う順番で物語へ近づく。その違いを、原曲に遅れて出会ったというだけの経験にしなくてよい。先に覚えた言葉や響きがあれば、後から知る版との比較に固有の発見がある。どちらの言語が本当の感情を伝えるかという競争より、それぞれの言葉を通したとき、自分が何に気づくかを確かめたい。YOASOBIの作品が持つ原作への通路は、そのような異なる言語の入口からもたどれる。物語に出会う順番が一つに決まっていないことが、活動の広がりを支えている。
『THE FILM』で、読む・聴くに「その場」が加わる
最初の映像作品『THE FILM』には、二〇二一年の三つのライブが収録された。新宿のミラノ座跡地の工事現場で行われた配信公演『KEEP OUT THEATER』、ユニクロとの協働による『SING YOUR WORLD』、日本武道館での有観客公演『NICE TO MEET YOU』である。ここでは演奏の細部や観客の反応を見てきたかのように描くのでなく、公式に示された三つの開催条件の違いに注目したい。同じ曲でも、誰に、どの場所から、どの形式で届けるかという条件が変わっている。
小説と楽曲の関係では、文章を読む時間と音楽を聴く時間の違いがあった。ライブが加わると、さらに開催された時点や場所が作品の記憶に入る。配信公演は画面を通して離れた場所へ届き、有観客公演には同じ場所に集まる条件がある。映像作品は、それらの異なる条件を後から比較できる形で残す。ライブへ行った人だけが持つ記憶と、映像で初めて触れる人が得る経験は同じではないが、どちらも楽曲との関係を増やす入口になる。
YOASOBIの場合、すでに物語を別の媒体へ移す活動が核にあるため、この展開も単なるおまけとしては捉えにくい。小説の人物が歌として届き、その歌がある場所で演奏され、映像として残る。各段階で受け手の注意の向け方が変わる。原作の筋を知ること、録音された一曲を聴くこと、演奏を映像で見ることは、同じ作品を重複して消費するだけではない。作品を受け取る条件を変える経験である。『THE FILM』という名前は、『THE BOOK』と並べたときに、YOASOBIがどの媒体で出会うかを作品名の段階から意識させているようにも読める。
二〇二六年の展開から、往復の先を考える
二〇二六年の公式発表では、ゲーム『オーバーウォッチ』とのコラボ楽曲「オリオン」を含む四枚目のEP『THE BOOK for,』が六月二十六日にリリースされると案内された。また別の公式発表では、デジタルアバターや立体音響などを用いる体験型の企画も紹介されている。これらを知らないまま、YOASOBIの活動を初期の小説と楽曲の組み合わせだけで固定することはできない。一方、個々の企画の全内容を体験したように評価する必要もない。確認できるのは、作品に入る場所や方法が増えているということだ。
ゲームとの協働や空間を使う表現が加わっても、聴き手にとって重要なのは、最も新しい形式をすべて追うことではない。自分がどの入口から曲へ近づいたかを知ると、次に何へ進みたいかが具体的になる。曲名が気になれば原作名を確かめる。映像が印象に残れば、その作り手を調べる。あるアニメの主題歌から入ったなら、同じ二人が別の作家の小説を受け取った曲と比べる。こうした動きは知識の量を競うためでなく、一つの好きを別の表現へつなぐためのものだ。
「夜に駆ける」の原作から音声劇へ枝分かれする道、『はじめての』の四人の作家から四曲へ進む道、アニメと楽曲の間に新たな文章を置く「祝福」「アイドル」「勇者」。YOASOBIを通して見えるのは、原作が一度使われて終わる素材ではなく、違う表現と出会い直す出発点になるということだ。そして曲も、原作の要約で終わらず、一曲として多くの人へ届く。読むことで聴き方が変わり、聴くことで読みたいものが増える。その往復が続く限り、YOASOBIの音楽は再生回数だけでは測れない広がりを持ち続ける。
