画像は本人の特徴を参考に制作した非公式のAIイラストです。実際の公演写真ではありません。

米津玄師の作品を好きになる入口は、一つに決まっていない。ハチ名義の曲から来た人もいれば、「Lemon」や「感電」をドラマで知った人、映画の終わりに「地球儀」と出会った人、ジャケットの絵に引かれた人もいる。これほど入口が異なると、同じ人の作品を聴いているのに、思い浮かべる米津玄師像が少しずつ違っていても不思議ではない。そこで、代表曲を人気順に並べる代わりに、曲がどのような相手や媒体と結びついて生まれたのかをたどってみたい。

『diorama』の制作、『YANKEE』の画集、「死神」と落語、「KICK BACK」の共同編曲、「地球儀」と絵コンテ、「月を見ていた」とゲーム。これらは単なる活動の幅広さの証明ではない。同じ作者が、作品ごとに違う位置から創作へ関わっている具体例だ。本稿は公式に確認できる制作関係を基に、音楽、絵、映像、他者の物語が交わる場所を読む。未視聴の場面を説明したり、本人の内心を推測したりするのでなく、確認できる仕事の形から作品の楽しみ方を広げるコラムである。

『diorama』から考える、一人で作ることの範囲

公式プロフィールによれば、米津玄師は二〇〇九年からハチ名義でオリジナル曲を投稿し、イラストや映像も制作していた。二〇一二年には自ら歌唱する『diorama』を米津玄師名義で発表し、楽曲制作から動画、アートワークまで広く自身で手がけた。ここで注目したいのは、多くの工程を一人で行ったという数の多さだけではない。音だけを完成させた後に誰かが見た目を添える形とは異なり、聴くものと見るものが、同じ作り手の仕事の中に置かれていることだ。

この制作形態では、絵を見てから曲を聴く人と、曲を聴いてから絵を見る人のどちらにも、作品の別の側面が開かれる。音楽と絵の意味が完全に一致すると決めつける必要はない。同じ作者でも、絵で考えることと、曲で考えることは違いうるからだ。むしろ一つの内容を二度説明していると見るより、音でしか渡せない時間と、絵の前で立ち止まれる時間を並べていると考える方が、両方の独立性を保てる。多才という言葉の中身を、具体的な鑑賞の違いへ分解できる。

また、この初期の形を唯一の純粋な創作として神格化しないことも大切だ。後に共同制作者や歌唱参加者が増えたとしても、自分の表現が薄まったとは限らない。一人で扱っていた範囲のどこを他者へ開くかという、新たな選択が生まれたと見ることもできる。『diorama』は完成された孤独の象徴として閉じるより、後の仕事と比べるための出発点にすると面白い。米津玄師の変化は、できることの数が増えたというだけでなく、誰と、どの工程を共有するようになったかという形でもたどれる。

『YANKEE』では、絵が付録以上の場所を持つ

二〇一四年の『YANKEE』には、「リビングデッド・ユース」「MAD HEAD LOVE」「アイネクライネ」「サンタマリア(ALBUM VER.)」「ドーナツホール(COVER)」など十五曲が収録される。公式商品情報には、描き下ろしイラストと漫画を含む百四ページの画集を備えた形態も記載されている。画集という分量を持つと、視覚表現はジャケット一枚だけで作品を代表する役割に留まらない。曲を流しながら眺めることも、音を止めてページへ集中することもできる、別の鑑賞の時間が生まれる。

画集とアルバムが一緒にあるからといって、各ページが各曲の正解を示していると考える必要はない。音楽から想像した像と、絵から受け取った像が一致しない場合、その差も作品の一部として楽しめる。曲を聴くときには時間が先へ進むが、絵の前では同じ場所を見続けられる。二つの形式が同じパッケージに入ることで、一つの作品を受け取る速度を自分で切り替えられる。画集が厚いという事実は、単なる豪華さではなく、立ち止まって見る時間を作品の中に用意することにもつながる。

『YANKEE』の曲目にある「ALBUM VER.」や「COVER」という表記も、作り手と過去の曲の関係を考える入口になる。一度生まれた曲を別の形で扱うことは、新作を作ることとは違う方向から自己表現を見直す行為になりうる。具体的に音がどう変わったかは音源で確かめたいが、表記だけでも同じ曲名を無条件に同一視できないと分かる。絵と音、以前の形と新しい形。『YANKEE』を一枚の人気曲集として受け取るだけでなく、表現を異なる器へ置き直す作品として見ると、その周囲に広がる仕事が見えてくる。

「アイネクライネ」で、描くことと編集することを見る

「アイネクライネ」のミュージックビデオについて、公式サイトは米津本人が企画、イラスト、編集を含む全工程を制作したアニメーション作品と紹介している。この事実は「本人が絵を描いた」という説明より範囲が広い。絵を一枚作ることと、時間の中でどの順番に見せ、どれだけの長さを与えるかを決めることは別の仕事だからだ。音楽の時間と映像の時間を同じ作り手が組み合わせる点に、この作品を考える手がかりがある。

静止した絵であれば、受け手は気になる部分を自分のペースで見られる。映像では、次に何を見るかという順番や速度が編集によって示される。その時間が楽曲の時間と重なると、同じ絵でも音の前後関係によって違う印象を持ちうる。ここで個々のカットを見てきたように描写する必要はない。企画から編集まで担当しているというクレジットだけでも、視覚表現を飾りとして音楽に付けたのではなく、一つの時間作品として構成する仕事があったと分かる。

同時に、本人制作の映像だから歌のすべての意味が明かされる、と考えない方がよい。作者が選んだ一つの表現であっても、音楽だけを聴いたときの想像を無効にするものではない。映像と音源は同じ曲へ向かう異なる入口である。「アイネクライネ」を音楽として好きになった人が映像に出会う場合と、映像から入って曲を覚える場合には、それぞれ固有の記憶がある。この二つを比べられることが、音と絵の両方を作るアーティストを追う面白さになる。作品を理解するとは、入口の違いを消して一つの答えにそろえることではない。

『かいじゅうずかん』は、名前と生態で世界を作る

二〇一六年に刊行された『かいじゅうずかん』は、雑誌連載を基にした米津玄師の単行本で、書籍化に際して描き下ろしが加わり、四十一体のかいじゅうが登場する。公式の案内では、イラストだけでなく名前や生態を示す文章があることも説明されている。ここで絵は、眺めるための造形だけで終わらない。名前と生き方を与えられることで、一つの存在として読まれる対象になる。音楽の外側にも、言葉と像を組み合わせる創作があると分かる仕事だ。

名前を付けることには、対象を他と区別し、思い出せる形にする働きがある。生態を説明する文章が加われば、姿だけでは分からない時間や行動まで想像できる。これは曲の題名と歌の関係を考える際にも参考になるが、すべてのかいじゅうを特定の曲の暗号として読む必要はない。本は本として独立した世界を持ち、そこから作り手の関心の持ち方を考えることができる。異なる作品同士を結ぶことと、片方をもう片方の説明へ従属させることは違う。

また、図鑑という形式は物語を最初から最後まで追う読み方とも違う。気になった存在から入り、別の存在へ移ることができる。長い筋を追わなくても、一つの名前や姿から小さな世界が開かれる。その形式を知ると、米津玄師の表現を歌詞だけで理解しようとする見方にも余白ができる。物語を一曲に集約する場合もあれば、複数の存在を並べて世界の広がりを作る場合もある。『かいじゅうずかん』は音楽活動の余技というより、何をどう名づけ、どのくらい説明し、どこを想像へ残すかという創作の別の実践として読める。

『BOOTLEG』の「+」が示す、他者を迎える形

『BOOTLEG』の公式曲目には、「fogbound(+池田エライザ)」「灰色と青(+菅田将暉)」という表記がある。この「+」は、他の人の名前を知名度の補足として加えただけではない。誰の声が作品に参加しているかを、曲名のすぐ近くで伝える記号になる。一人の名で発表するアルバムの中に、他者の名が明示されることによって、聴き手も声の組み合わせへ注意を向けられる。

共同制作を考えるとき、誰が主役かを先に決めてしまうと、参加の仕方の違いを見落としやすい。別の歌い手を迎えること、編曲を共同で行うこと、映像を他の監督へ委ねることは、それぞれ違う工程の開き方である。『BOOTLEG』の歌唱参加は、その中でも声の存在が一曲の受け取られ方へ関わる例だ。歌詞が同じでも誰の声として届くかで人物との距離は変わりうるが、ここで二人の歌唱を実際に比較したふりをする必要はない。まず参加者を知ることが、具体的な比較を始める準備になる。

この視点を初期の自主制作へ戻すと、他者を迎えることは自分で作れなくなった証拠ではないと分かる。一人で決められる領域が多いほど、どこを共有するかという選択も意味を持つ。自分と異なる声を作品に入れることは、完成形を自分の内側だけで閉じない方法になりうる。『BOOTLEG』を米津玄師の幅が広がった一枚と呼ぶなら、その幅を抽象的なジャンル数だけで説明せず、誰とどの表現を共有したのかという具体的な関係で捉えたい。後の「マルゲリータ」や「JANE DOE」を考える際にも、この見方はつながっていく。

『STRAY SHEEP』は、曲が通ってきた場所を集める

二〇二〇年の『STRAY SHEEP』には、「Lemon」「馬と鹿」「感電」「海の幽霊」、野田洋次郎を迎えた「PLACEBO」など十五曲が収録される。公式商品情報にはそれぞれのタイアップも示されており、ドラマ、映画、広告など異なる場所で出会われた曲が一枚へ集まっていることが分かる。アルバムを初めて聴く人にとっては新しいまとまりでも、各曲をすでに知る人には別々の記憶を持ち寄る場所になる。

たとえば「Lemon」を『アンナチュラル』から知った人と、配信で曲だけを知った人では、曲の背景に浮かぶ像が違う。「馬と鹿」や「感電」にも、それぞれ別の出会い方がある。アルバムに入ることは、それらの背景を完全に消すことではないが、別の曲と同じ作品名の下で聴く新しい条件を加える。タイアップ曲を単に回収した作品と見るより、異なる場所を通ってきた曲に、共通の居場所を用意した作品として考えると、アルバムという形式の意味が具体的になる。

この場合、統一感はすべての曲が同じ物語を語ることではない。むしろ、違う物語に関わった曲を同じ声が引き受けている点に、作り手の連続性を感じられる。映画やドラマの名前を外したときにも一曲として聴けることと、元の作品の記憶を呼び戻すことは両立する。『STRAY SHEEP』はその二重性を考えるよい例だ。聴き手がどの背景を知っているかによって入口は変わるが、知らない曲があることは欠点ではない。知っている曲の隣に未知の曲が置かれることで、自分の米津玄師像を更新する余地が生まれる。

「Lemon」「感電」「がらくた」を結ぶ、作品側の記憶

二〇二四年、映画『ラストマイル』の特別映像として、「Lemon」「感電」「がらくた」を組み合わせたPVが公式に公開された。三曲はそれぞれ『アンナチュラル』『MIU404』『ラストマイル』の主題歌である。同じ歌い手の曲が後からアルバムで並ぶだけでなく、関わった映像作品の側でも一つの提示に組み込まれている。この事実は、主題歌が作品の外に付く宣伝要素だけではなく、過去の作品を思い出す手がかりになりうることを示す。

主題歌は、映像と一緒に経験した時間を後から呼び戻すことがある。ただし、その記憶は聴き手ごとに違い、具体的な場面を知らない人にも曲は届く。三曲をまとめた公式PVがあるということは、作り手側が曲と作品の関係を改めて見渡す場を作ったということだ。ここで映像の内容を見てきたように説明するより、別々の年に発表された曲が、後の作品の入口で共に用いられたという構造に注目したい。曲の働きは最初の放送や公開が終わった時点で固定されない。

『STRAY SHEEP』に入る「Lemon」「感電」と、『LOST CORNER』に入る「がらくた」は、アルバムの上では異なるまとまりに属する。一方、主題歌という関係からは別のつながりが見える。ディスコグラフィーをアルバム単位だけで追うと、この横断する関係は見落としやすい。米津玄師の作品を知る楽しみは、年代順に一方向へ進むことだけではない。作品側のつながり、共同制作者のつながり、映像監督のつながりなど、別の軸で曲を結び直すと、同じ曲が違う位置に現れる。主題歌の多さはそのような複数の地図を作る材料にもなる。

「死神」は、歌う身体に別の役を与える

「死神」は古典落語の演目を題材にした楽曲で、シングル『Pale Blue』に収録された。ミュージックビデオの公式紹介では、監督が永戸鉄也、噺家の演技指導が柳亭左龍であり、米津本人が噺家、死神、観客の役を演じると説明されている。ここでは、描く人、歌う人というこれまでの軸に、役を演じる人という軸が加わる。しかも一人の人物像を表すのではなく、一つの表現の中で複数の役割を受け持つ形だ。

落語という題材の選択も、既存の物語と新しい音楽の関係を考えさせる。古い物語を使うことは、単に懐かしい雰囲気を借りることだけではない。語り手が言葉によって人物や場面を立ち上げる芸能を、音楽と映像がどう受け取るかという問題が生まれる。ここで具体的な台詞や映像の動きを引用せずとも、演技指導の専門家が参加していることから、本人の思いつきだけで役を演じるのでなく、異なる表現の技術と接する制作だったと分かる。

『Pale Blue』には表題曲と「ゆめうつつ」「死神」の三曲が収録される。ドラマ主題歌、ニュース番組のテーマ曲、落語を題材にした曲が同じシングルに入るという構成は、シングルを表題曲の一つの印象だけで説明しにくくする。三曲は同じ依頼から生まれたものではない。その異なる出発点を知ると、短い作品にも作者の関心の幅が現れていると分かる。「死神」は、米津玄師が物語へ近づく際、映画やアニメだけでなく、言葉と身体によって語る芸能にも接点を持つ例として捉えられる。

「KICK BACK」の共同編曲は、声の共演とは違う

TVアニメ『チェンソーマン』のオープニングテーマ「KICK BACK」は、米津玄師と常田大希の共同編曲である。公式告知は、常田をアレンジに迎えたことを明記している。『BOOTLEG』の歌唱参加と同じく他者との仕事だが、関与する場所は違う。声を一つ加えることと、曲の音の組み立てへ関わることを、どちらもコラボという一語だけでまとめると、制作の具体性が見えにくくなる。

編曲というクレジットを見ることは、歌の言葉や旋律だけが作品を決めるわけではないと意識する機会になる。何をどのように鳴らすか、どこに密度や空間を作るかといった設計も、一曲の経験を形にする。ただし、誰がどの音を考案したかをクレジットだけから推測してはいけない。共同編曲という表記から分かるのは、少なくともその工程に二人の名前が並ぶということだ。実際の分担を知るには制作過程の説明が必要であり、公式には二人の対談も用意されている。

ミュージックビデオには常田も出演し、ライブでの共演も公式に記録された。制作の段階で始まった関係が、映像や演奏の場にも現れる。この連続性に注目すると、共同作業は一度クレジットに名前を載せて終わるものとは限らないと分かる。曲を作る二人、映像に登場する二人、ステージで演奏する二人は、それぞれ異なる関係の見え方を持つ。「KICK BACK」を聴く入口がアニメだった人も、この制作のつながりをたどれば、一曲の背後にある共同作業の層へ進める。作品の力を一人の才能だけで説明しきらないためにも、役割を具体的に読むことが役立つ。

「地球儀」は、完成前の映画と向き合った仕事

「地球儀」は宮﨑駿監督の映画『君たちはどう生きるか』の主題歌として書き下ろされた。公式発表に掲載された米津のコメントでは、絵コンテを受け取り、宮﨑監督から説明を受けて制作に取り組んだことが語られている。ここでは完成した映画を一般の観客と同じ条件で見て感想を曲にした、という単純な順番ではない。映画が出来上がる途中の資料や対話に触れながら、音楽を作る関係がある。

絵コンテは完成映像と同じではない。画面の構想や流れを示すものから、まだ完成していない時間を読み取る必要がある。この条件を知ると、主題歌制作を映画の内容をうまく説明する仕事としてだけ見るのが難しくなる。制作途中の表現を受け取り、自分の音楽の時間へ応答する。その結果は映画とつながりながら、一曲としても成立しなければならない。具体的な歌詞解釈をここで代わりに確定しなくても、出発点の違いだけで、作品へ向ける問いは深くなる。

公式発表では楽曲が形になるまでの期間を四年とし、パッケージに付属する写真集では五年にわたる交流の記録が案内されている。この二つは対象となる期間が違うため、どちらかを誤りとしてまとめる必要はない。楽曲の制作期間と、写真で記録される関係の時間を区別すると、作品の背景をより正確に受け取れる。長くかかったこと自体を価値の証明にするのではなく、その間に映画と音楽という異なる表現が接していたと考えたい。「地球儀」は、主題歌を依頼する側と作る側の間にある時間まで、作品の資料としてたどれる例である。

二つの「地球儀」映像と、ジャケットの作者

「地球儀」には、奥山大史が監督したミュージックビデオと、映画本編の映像を用いたフル尺のミュージックビデオがあることが公式に確認できる。また配信ジャケットには、宮﨑駿による映画のレイアウト原画が用いられた。曲を取り巻く視覚表現がすべて米津本人の絵であるわけではないし、同じ曲に対する映像の入口も一つではない。この区別をしておくと、作者の名前だけで作品全体を一括りにせずに済む。

映画本編の映像を用いる版では、映画の記憶とのつながりが表現の条件になる。一方、別の監督が制作するMVには、その曲を独立した映像として扱う条件がある。どちらがより正しい解釈かを決める必要はない。同じ音楽が異なる映像と結びつくことによって、観客が何を思い出し、どこに注意を向けるかが変わりうる。これは実際の映像の印象を先回りして決める話ではなく、二種類の制作形態を区別して鑑賞する提案である。

ジャケットが映画のレイアウト原画であることも、音楽の外装に別の作り手の仕事が置かれる例だ。『diorama』や「アイネクライネ」で見た、自分の音と自分の絵が近くにある形とは異なる。しかし、その違いは一貫性の欠如ではない。曲が何と出会って生まれたかによって、視覚表現の作者や役割も変わると考えられる。米津玄師らしさを、常に自分で全工程を担当することに限定しないなら、誰の絵を入口に選ぶかという判断にも創作の輪郭がある。作ることに加えて、他者の表現を受け取り、自分の曲の近くへ置くことも作品を形づくる。

「月を見ていた」で、物語を読むことと遊ぶことを比べる

「月を見ていた」は『FINAL FANTASY XVI』のテーマソングとして制作された。公式サイトの吉田直樹との対談紹介には、脚本を読んだ最初の印象、実際にゲームをプレイして変化した印象、そこから導いた楽曲表現を振り返ると記されている。ここで確認できる重要な点は、制作にあたり文章とプレイの両方に接していたことだ。同じ物語でも、筋を読むことと、自分で操作して時間を過ごすことでは、受け取り方の条件が違う。

映画や小説では、基本的に作品が用意した時間の流れを受け取る。ゲームには操作や探索など、受け手が行動する時間がある。もちろん作品ごとに形は違うが、物語の概要を知ることと、その世界で過ごしたと感じることが同じではない点は考えられる。「月を見ていた」の制作過程について、脚本とプレイの違いが公式に取り上げられていることは、テーマソングが情報だけに反応して作られるとは限らないと気づかせる。

この点を「地球儀」と並べると、米津玄師が他者の作品へ関わる際の入口は一律ではないと分かる。映画の絵コンテと対話、ゲームの脚本とプレイでは、作品を受け取る行為そのものが違う。その違いを無視して、どれも壮大な作品の主題歌とまとめるのは惜しい。聴き手もゲームを知る前後で曲の受け止め方が変わる可能性があるが、未プレイなら楽しめないということではない。一曲として出会った記憶と、作品を経験してから戻る記憶を両方持てる。テーマソングはゲームを説明する要約でなく、作品を経験する前と後をつなぐ音楽にもなりうる。

『LOST CORNER』は、異なる依頼を一人の作品へ戻す

二〇二四年の六枚目のアルバム『LOST CORNER』は二十曲構成で、「KICK BACK」「月を見ていた」「地球儀」「M八七」「さよーならまたいつか!」「がらくた」などを収録する。公式発表では、アルバムのための新曲が八曲加わり、「マルゲリータ」にはアイナ・ジ・エンドがボーカル参加したことも案内された。アニメ、ゲーム、映画、連続テレビ小説と、異なる場所に関わった曲の横に、アルバムで初めて出会う曲が置かれる。

この構成は、外部の作品のために作った曲が、米津玄師自身のアルバムへ戻ってくる形として読める。もちろん戻るというのは本稿の見方であり、制作意図の断定ではない。主題歌として聴くときには映画やゲームとの関係が前に出るが、アルバムで聴くと同じ作者の別の曲との関係が前に出る。曲が一つの背景を捨てるのではなく、比較相手を増やすのである。複数の依頼に応えた作品が並ぶことで、個々の作品へ応答しながら残る作り手の連続性を考えられる。

一方、タイアップの肩書きがない曲を、既知の曲の間を埋めるものとして扱わないことも大切だ。初めて聴く曲には、映像作品の記憶を伴わずに出会える自由がある。すでに別の背景を持つ曲と、アルバムで最初に出会う曲が混ざることで、聴き手は既知と未知の間を移動する。『LOST CORNER』の長さを曲数だけで測るより、どれだけ異なる出会い方を持つ曲が同居しているかを見ると、作品の密度が具体的になる。主題歌の集合でありながら、それだけに閉じないアルバムとして受け取れる理由も、ここにある。

パッケージは、持つことまで表現に含める

『LOST CORNER』のジャケットは米津玄師の描き下ろしであり、公式商品案内には、オブジェケースに“がらくた”を収めた形態や、ブリキケースを用いた映像付きの形態が示されている。配信で音楽に触れるだけなら必須ではないが、物として作品を持つ場合、紙やケースの形までが経験に加わる。『YANKEE』の画集と比べると、見るだけでなく、容器や収め方が作品の印象へ関わる点が見えてくる。

このような仕様を高価さや希少性だけで評価すると、創作としての面白さが見えにくくなる。何を入れる容器なのか、音楽と同じ名前の物を手に持つとどう感じるか、開けて眺める行為がどのように聴く時間へつながるか。実物を体験したように語るのでなく、公式に示された設計から問いを持つことができる。アルバム名や収録曲「がらくた」と、物としての“がらくた”が近くにあることは、言葉と物の間に別の接点を作る。

米津玄師の視覚表現をジャケットの絵だけで代表させず、画集、漫画、映像、物の形まで見渡すと、曲の外側にも複数の時間があると分かる。ページをめくる時間、映像を見る時間、ケースを開く時間は、音楽を再生する時間と重なることも離れることもできる。どの形態を持つかでファンの深さが決まるわけではない。大切なのは、音楽の周囲にこうした別の表現が用意されていると知り、自分が気になる入口を選べることだ。物の仕様を読むことも、作品をどのような経験として届けようとしているかを考える方法になる。

「JANE DOE」と二〇二六年の作品が、関係を更新する

二〇二五年の劇場版『チェンソーマン レゼ篇』では、主題歌「IRIS OUT」に加え、エンディングテーマとして米津玄師と宇多田ヒカルの「JANE DOE」が発表された。公式は、米津が作詞・作曲し、宇多田を歌唱に迎えたデュエットであると説明している。ここでも共同作業の役割は具体的だ。二人の名前が並ぶから作詞作曲もすべて共同と考えるのでなく、どの工程で関係が結ばれたかを確認することで、声の共演を正確に受け取れる。

『チェンソーマン』との関係で見ると、「KICK BACK」の共同編曲から、映画での別の楽曲と歌唱の共演へ、関わり方が変わっている。同じ原作世界に接していても、以前の曲の方法をそのまま再現する必要はない。テレビアニメのオープニング、劇場版の主題歌、エンディングという置かれる場所の違いもある。具体的な音の比較をする際にはそれぞれを聴く必要があるが、制作体制と使用される位置だけでも、関係が継続することと同じものを繰り返すことは別だと分かる。

二〇二六年には「烏」がNHKサッカーテーマ、「夜鷹」が映画『キングダム 魂の決戦』主題歌として発表され、二曲を結ぶ特設サイトも公開された。さらに「夜鷹」のジャケットをモチーフとする折り紙企画も案内されている。ここではスポーツと映画という違う場に向かう曲が、鳥という題名や視覚表現を通して隣り合う。新しい作品を最新情報として消費するだけでなく、異なる依頼から生まれた曲が後から結び直される例として見ると、これまでの作品との連続性が分かる。米津玄師の創作は、曲を作って終えるだけでなく、曲が別の表現と出会う場所も更新し続けている。

好きな一曲から、作り手の役割をたどる

米津玄師を一つの言葉で説明しようとすると、歌手、作曲家、イラストレーター、映像を作る人という肩書きが並ぶ。しかし作品を具体的に見ると、重要なのは肩書きの数より、その都度どの役割を担い、どこを他者と共有したかである。「アイネクライネ」では企画から編集まで自分で行い、「死神」では監督や演技指導者と関わり、「地球儀」では他者の絵がジャケットになる。これらの違いは、表現の一貫性を壊すのでなく、同じ人が作品ごとに異なる関係を選んできたことを示す。

好きな一曲からその関係をたどると、次に触れたい作品が見つかりやすい。歌声に引かれたなら別の歌唱参加曲へ、絵が気になったなら画集や『かいじゅうずかん』へ、映画との関係に関心を持ったなら「地球儀」と「月を見ていた」の制作の入口の違いへ進める。これは全作品を同じ順序で覚えるための案内ではない。自分がどの部分に反応したのかを具体的にし、その関心に沿って作品同士を結ぶ方法である。

『diorama』から『LOST CORNER』までの作品を見渡すと、一人で多くを作ることと、他者の表現を受け取ることは対立していない。自分の絵を音楽へ添える場合も、別の作者の物語へ応える場合も、どの形で聴き手へ渡すかを選ぶ仕事がある。米津玄師の音楽を追う面白さは、その選択が作品ごとに具体的な形で見えることだ。一曲を聴き終えた後、映像の監督名、ジャケットの作者、主題歌となった作品、共同制作者へ視線を移す。そこで見つかるつながりは、好きだった曲を遠い知識へ変えるのではなく、もう一度その曲へ戻る理由になる。